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全財産を競馬にツッコんだSさんの話。

昔、府中競馬場の近くに住んでいた。私はモラハラ気味の夫と離婚したばかりで、一人暮らしを始めたところだった。週末、1Kの部屋の掃除が済んでしまうと、もうやることがない。暇を持て余した私は、よく競馬場に出かけた。

競馬場にはたくさん人がいるけれど、みんな次のレースのことだけを考えているから、おひとり様の女のことなんか誰も気にしない。私は数百円分の馬券と、ビールと、おでんを一皿買って、第1コーナー近くの芝生に座り、ぼんやりと時間を過ごした。寂しくはなかった。それより、やっと自由になった気がして、その無為な時間をそれなりに楽しんでいた。

そんな日々を過ごしていたある日、職場で同僚が「紹介したい人がいる」と男性を連れてきた。他部署の主任で同僚の競馬仲間だというSさんは、私より6歳上でフレンドリーな感じだった。

「競馬やってるんだって?今度一緒に行こうよ。それとすごくいい本があるから、貸してあげるね!」

半ば強引に貸してもらった本は、彼の競馬の師匠が書いたものだそうで、出走馬の名前と枠順を見るだけで勝ち馬がわかるというはなはだ怪しい本だったが、Sさんは信じているようだったし、他部署とはいえ先輩なので、ありがたくお借りしておいた。

同僚が言うには、Sさんも少し前にバツイチになったのだそうだ。余計な気を回して、ちょっと縁結びでもしてやろうかと企んだに違いない。おせっかいなことを、と思ったが、好意でしてくれたのだからと、私はそのお膳立てに乗ってみることにした。

しばらく後、借りた本を返すついでに、一緒に府中に出かけた。Sさんは、本に書いてあったセオリーを熱く語ってくれるのだが、私はそもそも、それほど勝負にはこだわっていなかったから、「へーそうなんですかぁー」的な、無難な相槌でお茶を濁していた。

メインレースを待っていた時のことだ。Sさんは、スタンドのフェンスにもたれてポツリと言った。

「オレ、離婚の慰謝料を競馬で作ったんだよね。」

別れた奥さんが2人で暮らした部屋から荷物を運び出すという日、Sさんは預金を全部引き出して府中にやってきて、その全額を1つのレースに突っ込んだのだと言う。

「それで、勝ったんですか?」

「勝ったよ。さすがにゴール前で手が震えたよ。」

そのおかげで、別れた奥さんに当初の予定よりたくさんの慰謝料を渡すことができたのだと、Sさんは笑った。彼女は悪くない、全部オレが悪かったんだから、と。

その日の戦績は覚えていない。Sさんの言葉は、彼がまだ別れた奥さんに残している想いの大きさを感じさせるには十分だったし、私は私で、夫の留守中に自分の荷物を運び出した日のことを思い出して、なんとも言えない気分になっていた。お互い口にはしなかったが、まだ次の恋を探す時期じゃないことがわかったのだ。全てのレースが終わった後、私たちは「それじゃあ、また」と言って別れた。次はないことを知りながら。

それからすぐ、私の勤務地が本社から都内の別のビルに変わり、Sさんと顔を合わすことなく2年がすぎた。その間に私は今の夫と出会い、一緒に暮らし始めていた。ある日珍しく本社で会議があり、昼休みに社食に並んでいると、肩をたたかれた。

「よう、久しぶり。元気?」

相変わらず過剰なほどフレンドリーなSさんは、最近はあまり府中に行ってない、と言った。

「えーどうしてですか?あんなに入れ込んでたのに。」

私が言うと、Sさんはグーにした左手を差し出してきた。薬指には指輪が光り、もうすぐ子どもが産まれると言う。キミは?と問われて、私もそろそろ籍入れると思う、と答えるとSさんはよかったよかったと笑い、私の肩をバンバン叩いた。

私たちは再び「じゃあ、また」と言って別れた。あれからSさんには会っていない。

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