裏を読んでこそ面白くなる 死刑にいたる病【映画レビュー】
以前にCMで見て気になっていた映画がアマプラで見れるようになっていたので丁度いいと思い視聴しました。
タイトルが『死刑にいたる病』でサイコサスペンスっぽい雰囲気から、私は我孫子武丸の『殺戮にいたる病』っぽいものを期待していました。
CMを見たのがそれほど最近ではないことからアマプラ落ち(あんまり評判良くなかった映画は公開終了後、時間を置かずにすぐアマプラで見れるようになる現象のこと)ではないんだろうと思えたこともあり期待が持てました。
『殺戮にいたる病』とは全然違いました、サクッと他の人のレビューを見た感じでは『羊たちの沈黙』っぽいと言われておりましたが、これもシチュエーションが似ているというだけで中身は全然違います。
非常に面白い作品だったんですが、私が感じた面白さは真っ当な映画的の楽しみ方とは異なるものになるのでちょっと説明が難しいのですが、シンプルに眺めるだけで面白さを見出す人は少ないんじゃないかな、というのが私の見解ですのでその上で面白いと評価しているのは何故かというところを中心にレビューを書いていこうと思います。
原作未読だけど物語としては原作で読んだ方が良いだろうと思う3つの理由
原作付きの映画が公開されると必ず原作の方が良いという人が現れます。
これは当然のことで、そもそも映画と小説では詰め込める情報量が大きく違うから映画はどうしても説明不足になってしまうものなんです。
この映画に関して言えば340ページの原作小説が存在し、これは私だと読みきるのに5~6時間ほどかかる情報量で、映画を見る時間の3倍ほどかかる計算になります。
この3倍の差を埋めるために映像という伝達手段を持つ映画は独自の文法(作劇上の作法とか)や演技で効率的な情報伝達を試みるわけですが、それでもなお説明不足が残ってしまうのは仕方がないことだというのが恐らく一般的な考え方であり、あまり些細な事を言うのは野暮というもの。
原作を進めているだけの人がなんか鬱陶しく感じるのはこの野暮な物言いになるラインを越えている時です。
ですので私は原作と映画を比べる時にはこのラインに注意を払ってものを考えるようにしています。
そこはあらかじめお伝えし、更に原作を読んではいないことを明らかにした上で、この物語は映像化に失敗しているから話の筋は原作で見ないとダメだと評価します。
まずはその理由を三つほど以下で指摘していくことにします。
原題は「チェインドッグ」だった
私が原作を読んでもいないのに原作を勧めようと思ったのは視聴後にこの情報を得たことが原因です、元々「チェインドッグ」として出版された後、文庫化のタイミングでタイトルを変更したという経緯があるようです。
作家の方が言うにはこういったことはよくあるらしく、その理由は売り上げが芳しくなかった時のテコ入れだそうです。
内容に加筆などの変更は無いということなので、ある程度の自信があったことを感じさせますよね。
人目に留まらなかったことが売り上げ不振の原因で手に取ってもらえればイケるという算段がありそうに感じます。
そうでなければそもそも文庫化しないのが真っ当な判断でしょう。
原題の方をアマゾンで検索してみると表紙がラノベっぽい雰囲気のイラストになっているものが出てきます。
改題された方の表紙はサイコサスペンスっていう雰囲気のものになっていて、作品の雰囲気的にはラノベ風イラストの方が合ってるように思いますし、タイトルもチェインドッグの方が妥当なんですよね内容を考えると。
この辺から興味を持ってもらうために勘違いさせようというという意図が透けて見えるのでちょっと不愉快な気持ちになります。
『~にいたる病』みたいなタイトルはわりとありがちなもので、大本はキルケゴールの『死に至る病』でしょうか。
引用する作品が多くあり過ぎて陳腐さすら出てきた平凡なセンスと言えますが、「チェインドッグ」というタイトルがあるにもかかわらず「死刑にいたる病」に改題するのは話が違います。
そうする妥当性が作品から全く見えてこないとなると同じジャンルで高い評価を受けているものの威光を借り、そこを追及されたらキルケゴールを出して言い逃れようとしているのではないかと邪推してしまうものじゃないですか。
意気地は無いのに安全が確保された保険付きの悪事は喜んで行う小悪党を見るような不愉快さを感じます。
原作を支持すべきです、「チェインドッグ」でないものに多少なりとも価値を与えるのは嫌だなって思うんです。
見てるとイライラする
本作は主人公である筧井と連続猟奇殺人犯である榛村が面会室で話すシーンに結構な時間が割かれています。
筧井はそのキャラクター性としてボソボソ喋る根暗な人物で、そうするのが正しいのですが、何言ってるのかすごい聞き取りにくくてイラついちゃうんですよね。
冬場で暖房付けながら見ていて我が家のエアコンがちょっと稼働音デカめであることも原因の一つであることは間違いないとはいえ、そうは言っても小説では生じ得なかった問題を映像化で生じさせたまま何の工夫も無く出すんじゃねぇよの気持ちが強くあります。
何か非があるワケじゃないけどダサくいじゃないですかプロとして。
原作ならこのイラつきを感じることは無いでしょう、文字だから。
監督が白石和彌である
『凶悪』や『日本で一番悪い奴ら』など、実際の事件を基にした映画で有名な白石監督はこの原作と非常に相性が悪かったんじゃないかと思います。
というのも人間の性格をリアリストとロマンチストに二分して考えると、原作はロマンチストっぽく、白石監督はリアリストって感じの印象があるんですよね。
白石監督は物語の登場人物の心情を理解することができず、映像として情緒を表現することができなかったんじゃないかと感じました。
その代わりに別のものを表現しているのですがそれは後ほど書くとして、物語としてはなんか不自然で安っぽい印象を受けます。
白石監督の作品はエグい描写が目立つものの、人の心の描写はかなり上手い人だと思うんですよね。
私が好きな作品だと『孤狼の血』、ヤクザ映画に特に興味があるワケでもなくAVを見るような気分で視聴したら驚くほど感動的な物語でした。
これマジでオススメなんですがともかく非常に情緒あふれる映画を撮った実績があるんですよ。
その監督が人の感情を表現できなかったとなると必ず原因があるはずで、その仮説として私は思考のベースが異なるタイプの人間が書いた物語を心底理解することができないまま映像化したからではないかと考えました。
原作を読んでいなくとも主人公である筧井の人物像がマンガ的にデフォルメされた人格を持たされていることは分かりますから、ノンフィクション映画に定評のある監督を起用したのはミスマッチなんじゃないかなぁと思えてなりません。
こういう感じの映画は日本の監督だと岩井俊二が上手くやりそうな気がします。
映画の方にしかない面白さ
そんなわけでなんか映画版はダメだと言っているような印象を与えるようなことを書いてきましたが、私がダメだと感じているのは『チェインドッグ』を映像化しようという企画そのものに対してであって、出来上がった映画は実のところ結構楽しめてしまったんです。
それはどのレビューを見ても盛んに言われている阿部サダヲの存在感によるものが大きく、ホラー映画を見たら絶対に感じるべき恐怖を与えることに彼の存在が大きく貢献していました。
この恐怖は阿部サダヲの演技が良かったことも勿論あります。
しかしそれだけではなく、コメディ役者というその社会的立場が複合的に作用して恐怖を形成していたのかなと感じるところの方が大きいです。
先程白石監督が情緒とは別のものを表現していると書きましたが、それがこの恐怖であるというのが私の見解になります。
それについて以下で書いてみます。
京ことば的なメッセージ
近年お笑い芸人が抱える苦しみというものがクローズアップされるような事件がいくつか起こっていて、これについて考えさせられる機会が社会全体に間違いなくありました。
これにより小馬鹿にされる「演技」を日常的に行っている芸人さんを、その演劇の観客である我々もまた演者のような気分で小馬鹿にするような風潮が存在し、それによって苦しんでいる人がいるという事実が各所で語られるようになり、社会全体としての無自覚な罪が表面化するようになりました。
私が『死刑にいたる病』を視聴することで受け取った恐怖はこのようなものです。
阿部サダヲの出演作といえば私はタイガーアンドドラゴンを何度か通しで見るくらい好きで、その中で彼はまさしく苦しみを抱えながらも道化を演じる芸人の役でした。
そこでは特に心の闇に焦点があたることはなく、「お前には分からない」的なセリフもあったように思いますがその通り分からなかったし、真っ当にその意味するところを受け取ることもなく形式的なセリフとして聞き流していました。
ほとんどの人が同じように取るに足らない言い分と判断して聞き流すものではないでしょうか、こうして蓄積された苦しみにより事件が起これば罪悪感を抱えるものの、そこを指摘されて責められれば不服に感じるのが正直な心の在り方だと思います。
そしてこういうことを直接的に言語化したりする人間に対してはちょっとした嫌悪感があり、映像表現や絵画の形に変換してややオブラートに包んだ形で見せられた時にはそれを恐怖として認識する。
白石監督がやったのはこういう表現なんじゃないかと思います、そして私はこれに対して確かに恐怖を感じ、面白いなぁと評価するに至りました。
原作での榛村は美男子なんだそうですが、人に好印象を与える演技をしながらその裏で被害者が裏切られた混乱の中で痛みに苦しむ様を楽しむ猟奇的な人物の役にコメディ俳優でイメージとしてはイケメンの対極にあらねばならない阿部サダヲを充てるのは表面上のこととは全く異なるものを表現しようとしているのだという示唆を感じます。
陰謀論を語るようなちょっと受け入れ難い言い分だとは思いますが、そういう見方をすると面白くなる映画なんですよね。
普通に見ると足りないものが多くてダメだと思います。