モネのあしあと
今年の春、大規模なモネの展覧会が大阪の中之島美術館で開催されました。
その展覧会に足を運ぶ前に手に取ったのが原田マハさんの『モネのあしあと』です。
"「表現」とは、そこに作者の存在が介在したという痕跡を残すこと。"
直島にある地中美術館でモネの睡蓮を観たとき、遠くから眺めるとうっとりするような空気感なのに、近くで観てみると思いのほか筆致が粗いことに驚いた覚えがあります。
この本を読んで、このときに受けた印象というのはやはり間違っていなかったのだとわかりました。それは刻一刻と移ろいゆく光をつかまえるためであり、まるで白昼夢の中にいるような作品の背景にはその一瞬を捉えようと懸命に絵筆を動かすモネの存在があるということを知ったのです。
モネの人生はゴッホのように波乱に満ちているわけではなく、深い悲しみや苦悩もなく、生涯をとおしてただただ夢中で庭作りや食の探求に身を投じることのできた幸せなものだと思っていました。なのにモネの描く風景画にこんなにも心動かされる(きっと誰しもがそうだと思うけれど)。そのことをずっと不思議に思っていたのです。だからこそモネの絵が好きだということをどこか引け目に感じてしまう自分もいました。確固とした理由がなく、甘美で心地よい色彩に本能的に惹かれているだけというのはどことなく恥ずかしいことのような気がして。
でも、この本を読み、やっと謎が解けました。
モネの人生には悲しみや苦悩がなかったわけではありませんでした。
それらを胸に抱えながらも、それをそのまま絵に表現することをよしとしなかったのです。
彼は妻のカミーユを亡くしてからは人物画をほとんど描かなくなりました。けれども苦悩を苦悩のまま表現するということは選ばなかった。一瞬の光を捉えようと絵筆を素早く動かすモネの姿と同様に、多幸感溢れる画面にはそのようなモネの強い意思が内包されています。一貫して幸福な空気感を纏うモネの絵画。ただたゆたうままに幸福な風景を描き続けたわけではない。彼の作品達は、いくつもの分岐点を通過し、確固たる意思で辿り着いた場所からうみだされたものだったのです。それはモネなりの矜持だったのだと思います。私はその精神性を感覚的に感じ取っていたのだと思いたいです。
展覧会で、目に入った瞬間、静かに涙が溢れてきた作品があります。
注釈を見てみるとそれはヴェトゥイユの風景を描いたもので、これは妻を亡くしたモネが次の土地へ移る直前に描かれたものでした。そこにはどこか、静かな決意のようなものが漂っている気がしました。
展覧会の中でもきっとほとんどの人が立ち止まることなく通り過ぎていくような作品だと思います。それがモネの人生においてどのような地点で描かれたものだったのかを知らずして、私の目はその作品に釘付けになりました。
理由はわからないけれどなぜか惹かれる、それは芸術の鑑賞方法としてあるべき姿のひとつだと思います。そしてどちらかというと私自身も、そういうやり方で芸術作品に触れることがほとんどでした。(現代美術などコンセプトがしっかりと存在するものであればまた話は違ってきますが)けれど今回の鑑賞体験において、作品の生まれた背景や作家の人生を理解しているということが第一印象のその先にある、作品の放つ魅力を理解するうえで重要な要素となりうるのだということも知りました。
これは余談ですが、夢にまでみたオルセー美術館やオランジュリー美術館でのモネよりも、日本の地中美術館でみた真っ白な空間に浮かぶ睡蓮に心が震えたことを今でもずっと不思議に思っています。まるで天国のような光の溢れる空間のもつ力だったのでしょうか。何がひとの心の琴線に触れるのかというのも理屈ではないのでしょう。
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