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自分の人生に何を求めますか?**


お久しぶりのしゃぼんです。

noteを始めた頃は毎日書くぞと意気込んでいたのにこのザマです。でも大丈夫。(何が)
無理やり書いても意味が無いもの。書きたい事を書きたい時に書きたいように書きたいのだ。

とは言え最近書きたいことがあってもまとまりきらなくて見送る日々が続いていました。



そんな今日は、とある所属サロンで見かけた投稿に触発されて、ふと考えたことを書こうと思います。




「あなたは自分の人生に何を求めますか?」




私は死ぬまでにこれがしたい、あれがしたい、こうなりたい、ここへ行きたい、あれを食べたい、こんな体験をしてこんな気持ちを感じたい。


子どもの頃は色々と思いを馳せていたはずなのに、ふと立ち止まってみると、自分はどこへ向かっているのか、何を求めているのか、答えはまだ出ていないことに気付きます。


ただただ日々の暮らしに翻弄され、小さな不平不満を噛み締めつつけ、悲劇のヒロインになりきって同情してくれる人を待ち焦がれ、なんの努力も真剣にせず、年老いて死ぬのかな、と怖くなりました。(恐怖すぎる!)


そして、昨年読んだこの本のことを思い出しました。





末期がんを宣告された著者は、襲いかかる恐怖の渦の中で、ある天啓を見出します。




そして、私はアウシュヴィッツを生き延びた、ヴィクトール・フランクルの本で読んだ言葉を思い出しました。



人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなく、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。

フランクル『夜と霧』より

人間が人生の意味は何かと問うに先立って、人生のほうが人間に問いを発してきている。だから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要なんかないのだ。
人間は、人生から問われている存在である。人間は生きる意味を求めて人生に問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えは、人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない。

フランクル『医師による魂の癒し』より



この問いは、ぼんやり生きていた私にもとても胸に刺さるものでした。



自分が悲劇のヒロインだとしたら、その先に何か悲劇のヒロインとして得られるものがあるに違いないし、不平不満が消えない日々は、その上で私に【何か】を訴えかけているはず。



【私の人生は私にこの人生において何を求めているのだろうか】


今までの経験、出会い、葛藤を通して、私に何を気付かせたくて、何を行動させたいのか。




今私がいちばん頭を悩ませていることは、息子とのコミュニケーションです。


耳の聞こえない息子は、母語が日本語ではありません。母語は手話になります。しかし、その母語を教えるのは、日本語が母語の母、私です。教えられるほど使いこなせていません。


0歳の頃から通っているろう学校で色々なことを教わり、学んできました。


そこはやはり学校なので、多くの子どもたちに役に立つ情報だとは思いますが、息子に当てはめても難しいことも多いと感じるようになってきました。


そもそも特性の強い夫によく似た傾向があり、かつ言語も共通でないという所から、私はまるで、タイ人の夫との間にフランス人の息子が生まれたような気持ちでいるのです。


この稀な体験は、私の人生は、私に何を求めているのか?


答えはまだ出ません。がんばれよ!としか聞こえてきません。笑



noteで言語化しつつ、頭の整理と私の人生の求めるものを探していきたいなと思います🥺⭐️


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