天使なんていなかった
僕は幼い頃からずっと、いつか天使が舞い降りてくれると思っていた。
僕を救ってくれる天使がいつか目の前に現れて、僕を楽園に連れていってくれると信じていた。
だけど24年経っても、天使なんか舞い降りてくれなかったし、ついには楽園なんてものは存在しないんだって気づいてしまった。
ただ純白の翼の生えた魅力的な女の子は何人かいて、俺はその子に見入って恋焦がれて、あと一歩で触れられるところまでいっても、ある女の子はその純白の翼を靡かせてどこか遠くの、僕が知る由もない場所へ飛び立ってしまい、またある女の子は翼を折って冷たく僕を嘲笑って路地裏へ去ってしまった。
昔から僕の視界に映る風景はどこか淀んでいて、光を見つけてもすぐに消え去っていくのをひたすら繰り返していた。憂鬱が、悲しみが、不安が、焦燥が、僕にまとわりついたまま今も消えてくれない。
今の世の中には、息苦しさを感じて、ルサンチマンを抱えて、あてもなくさまようような人生を歩んでいる人は少なくないと思う。
かくいう僕もその一人だった。
どこまでいっても世界や自分を肯定できない。失うことに慣れて、涙を流すことだけ上手くなってしまった。不幸な顔してやりすごしてた方が、実際楽で、現実逃避が気持ちよくてたまらない。
僕は何度も悲劇のヒロインぶって、その場しのぎのやり口で、世界に責任転嫁して自己を保っていた。それでもズルズルと落ちていってはその度に死んでやろうと暴挙を繰り返して、ハングマンズノットを結ぶのが上手くなってしまった。その癖どこかで未練があって、勇気がないために、死という終点の一駅前で途中下車して、気づいたら真っ白な天井の狭い部屋にいつも辿り着いてしまう。
すんなり灰になれるほど僕は完成されてないし、あっさり立ち去れるほど世界も完成されてなんかいない。
天使もいなければ、楽園を作れるわけでもないんだ。この世界は。どこか鈍色が混ざっていて、視線の先にはいつだって悲しみの欠片が転がっている。幸せよりも苦痛を感じる方が何倍も簡単なんだ。
だけどさ、最近僕は思うんだよ。
完成された世界だったら、汚れを感じることはなくても、美しさを感じることもないんじゃないかな。
完成された人間だったら、苦痛を感じることはなくても、幸福を感じることもないんじゃないかな。
俺はこの世界はクソったれだと思ってる。嫌になるほど、辛い悲しい思いをしてきた。あっけなく簡単に大切なモノや人を俺から奪ってくるし、何度も鉛みたいな理不尽を俺に押し付けてきやがる。
それに俺は自分自身がどうしようもないダメ人間だと思ってる。欠陥だらけで、周りのヤツらと比べて歩幅も歩くスピードも体力も劣ってる。昔も今も人並みになれなくて、自分が不良品だと気づく度にやるせない気持ちになる。
ティーンの頃は、悟ったツラして俯瞰して、「ぜってぇ俺はお前らなんかと馴れ合わねぇから!」って、教室の隅で俯いて、イヤホン越しに最大音量でロックを聴いてたし、「つまんねぇ大人になんかなるもんか!」って、中指立てて歪みきったギターをかき鳴らして歌ってた。
それでも時間は無慈悲にも過ぎていって、気づいたら24歳の何者にもなれてない、大人にすらなり切れないガキみたいな気狂いになっていたし、あの頃心底嫌ってた周りのヤツらは無常にも変わっていって、どこか幸せそうな顔をしている。
あれほど嫌悪してたのに、どうしてだろう、人並みかそれ以上の生活を送れてる、特別何かあるわけでもないありふれた日常を過ごす彼ら彼女らが、羨ましく感じてしまう。
あぁそうか。普通や平凡でいるのも、ありふれた人生にするのも、簡単なことじゃなくて、馬鹿になんかできないことなんだ。
社会や人を取り巻く環境っていうのは、変わっていくのが世の常で、現状維持をするのにも努力を欠かせないんだ。
俺が斜めから見てた人たちは、その人たちなりの努力をして、その人たちなりの世界の受け入れ方をして、その人たちなりの在り方を見つけたんだ。それは何気なく見えても、とても凄いことなんだ。
俺は現状維持どころか、勝手にうがって、勝手に俯瞰して、勝手に落ちていった、本当のダメ人間なんだとようやく気づく。
けれど、俺は周りのヤツらみたいに上手く立ち回れないし、人並みになれない欠陥だらけの人間で、まだやっぱりどこかで、妥協をしたくないことが多かれ少なかれある。
ここで少し自分語りをさせてほしい。
俺は今から半年ほど前に、また性懲りも無く何度目かの自殺を試みた。
ただ今までのそれとは違い、かなり本気だった。ギターから何まで売り払って身辺整理をして、遺書もちゃんと書いて、LINEやInstagramもアンインストールして、貯まっていた眠剤を全てと、強度のあるロープを予備も含めて2本を持って、5年ほど暮らした東京を出て地元へ向かった。
最期を迎えるなら、青春を過ごして思い入れのある場所が良かったし、そこは富士山の麓だったから、自殺の名所の樹海も近いし、それ以外にも人気のない自殺に適していて自然がある場所が多いからだ。
最期くらい穏やかな気持ちでいたかったから1週間ほど地元で過ごした。実家はもうないので帰る場所もなく、ネットカフェに泊まりながら、安いけれど落ち着ける温泉に行ったり、音楽を聴きながら周辺地域を散策したりして心を落ち着かせながら、死を迎える準備をしていた。
そんな中で、青春時代の思い出の音楽を聴いていると、大好きで何度か共演したバンドの音源も聴くことになる。
俺は高校の時、オルタナティブロックのバンドをやっていた。静岡でかつ高校生でオルタナティブロックをやってる人間なんてほとんどいなかったから、共通する音楽性を持つ大人のバンドと仲良くさせてもらって、対バンする機会も多かった。
そこで出会ったとあるバンドのフロントマンに気に入ってもらえたのだろうか、とても良くしてもらっていた。
その人は会社経営をしていて、俺が大学進学で上京したあとに一度東京で、食事に連れて行ってもらったことがある。その時「路頭に迷ったら俺が柏原くんを拾うよ」と言ってくれたことを思い出した。
大好きな思い出の音楽を聴いてたこともあって、死を決意して地元で過ごしているうちに、やっぱりどこか死ぬのが怖くもあったし、割り切れない気持ちもでてきていた。
それもあって、最後にこの人を頼ってみようと思い連絡をした。すると夜にもかかわらず話を聞いてくれて、翌日その人のいる街へ行くことになった。
静岡といっても広いから、少し遠かったけれど、心身共に疲れきって壊れかけて、生気のない雰囲気のまま待ち合わせの駅へ行くと、その人は同じバンドの人と一緒に車で迎えにきてくれた。
そしてそのまま、その人の実家に当分暮らしていいという許可を取ってくれて、俺の社会復帰のために体調を考慮しつつ仕事をくれた。
そうして今に至るというわけ。
独り立ちの準備はしつつも、今も居候させてもらっていて、社長のおじい様も優しくしてくださってるし、心身共に快復していっているので、仕事量も増やしてくれている。
その人は俺をドン底からすくい上げてくれた。感謝してもしきれない。何度も試みている以上こんなこと言っても信用できないだろうけど、もちろんもう自殺なんてしようとしない、したくない。何年も続けて習慣になってたオーバードーズも静岡に来てから半年以上、一度もしていない。それは救ってくれた社長たちに対する裏切りになってしまうからだ。
それなりに重い病気である以上、希死念慮は顔を見せるし、病気の弊害はたくさんあるし、憂鬱も不安感も消えることはない。
けれど、俺はやっぱりなるべく前を向きたい。人並みには到底及ばなくても、歩幅が短くても、体力もスピードもなくても、少しづつで、休み休みでもいいから歩いていきたい。
俺が心底嫌った連中も、なりたくなかったつまんねー大人も、とっくに俺を追い越して、差はどんどん開いていって、もう背中どころか影すら見えないけど、俺は俺のやり方で、俺が感じたい幸福のために生きるをやめたくないんだよ、やっぱりさ。
今は「明日は今日よりも少しだけ良くなる」って心から信じられる、いや信じさせてくれ。
天使なんてこの世にいなかったけど。
楽園なんてどこにもありはしないけど。
どこまでいっても世界は歪で、汚れたものばかりで、理不尽だらけで、クソったれだけど。
それでも手を差し伸べてくれる人はいる。
救いになるものもある。
不完全な世界だから、嬉しいとか面白いとか楽しいとか美しいとか、幸せだとか感じることが出来る。
それに不完全な世界だから、ロックンロールは存在するんだ。不完全な人間だからロックンロールが、歪んだギターの音が、心の臓を揺らして、震えるくらいの感動を享受できるんだ。
俺は多分周りの連中みたいにはなれない。今更羨望の眼差しを向けてしまうこともあるけど、俺は俺でしかないし、誰しもがその人なりの在り方があって、その人しか感じられない幸福がある。
俺は大人になりきれないかもしれないが、別に無理してなる必要も無い。そりゃもちろん常識とか振る舞いとか社会人としての能力は身につけなきゃいけない。真っ当な人間になろうとする努力は怠っちゃいけない。
だけどそうじゃなくて、自分の在り方、人生の歩み方として、大人になんかなってやるもんか。24歳になったけど、the pillowsの「Blues Drive Monster」聴いて今も心が揺さぶられるんだよ。ナードなロックチューンが突き刺さって離れないんだよ。
それに今、俺はまた音楽をやりたい作りたいって衝動が抑えられない。
ティースピリットがまだドクンドクンと蠢いてるのを感じる。大人になったからってロックをやっちゃいけないなんて道理があるはずないだろ。
ガキの頃から俺は音楽に救われてきた。音楽があるからクソったれの世界でも生きていける。
カート・コバーンや志村正彦やwowakaは若くして旅立ってもうこの世にいない。
でもノエル・ギャラガーや五十嵐隆、木下理樹やシノダは今もロックを生み出し続けて、歌い続けて、今も俺を感動させてくれる、救ってくれている。
それは何よりも素敵なことで、今も昔も俺は憧れちまってるから、彼らが俺を助けてくれたように、俺もそうしたいんだ。自分のためでもあるけど、大人になった今、俺が救われたように、誰かの心に響く音楽を作りたいしやりたい。
物語もそうだ。また小説を書きたい。
ガキの頃から小説やアニメやゲームや、色んな物語が俺を救ってくれたから。
別にカリスマとかヒーローになりたいわけじゃない。惨めでも拙くても細々でもいいから、音楽や物語を生み出したい。それが今できる俺の前の向き方になるんだと思う。
999人が俺の作った音楽や小説に見向きもしてくれなくても、ゴミみたいな作品だと言っても、教室の隅で俯いて泣きそうになってる1人が聴いたり読んだりしてくれたらそれで十分だし、少しでも心を揺らせるのならこれ以上ない幸せだから、いつかライ麦畑のつかまえ役になれればいいなと思う。
天使はこの世にいなかったけど、手を差し伸べてくれる人はいた。
楽園なんてなかったけど、ロックンロールと物語は存在した。
不完全な世界だから、不感症にならずに済んだ。
不完全な人間だから、ロックンロールや物語を美しいと感じられた。
この世界も捨てたもんじゃない。こんな欠陥だらけのジャンク人間でも歩いていける。
今はもう天使も楽園も必要ない、望まない。
俺は負け組で惨めで醜くて、いい歳になってもティーンエイジスピリッツを捨てれないダメ人間だ。
でもそういうやつにしか鳴らせない音が、紡げない言葉が、見えない景色があるだろう?
だから俺は俺なりに生きてくよ。苦痛と悲愴と憂鬱ばかりが蔓延るこの世界で、数少ない救いに感謝して、見落としそうな幸せたくさん拾い上げてさ。
そんな風に、醜く惨めでも進んでいった先に、実は天使がいたとしても、俺は純白の翼に泥つけてやるし、楽園に歪みきったギター轟かせてやるよ。神様だってファズの響きで殺しちまうよ。
だってその方がきっと、人間らしくて、最高だろうからさ。
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