「加典兄妹」(平岡正明による)
先日飲んですこし仏教の話をしてたら、昨日思い出したのが「加典(かてん)兄妹」の話(をしている平岡正明の文章)。これ何度も読んだと思うんだよね、
写経したので置いとこう、朝から抹香くさいけど、夏の残り香のあるあいだに。
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●坊主批評・節談説経「加典兄妹」
(略)
宗教的感情を論じる。朝鮮と日本に伝わる梵鐘づくりの名人、加典の話である。
――千年の昔、朝鮮新羅の都慶州で大王が亡くなりました。京城に、加典という名の鐘づくりの名人がおった。王は先王の菩提を弔うため加典に鐘つくりを命じた。慶州に加典を招んだ王は、遠路ごくろう、幾千年の後までも鳴って鳴って鳴り渡る鐘をつくれ。
慶州にとどまって加典は鐘をつくりはじめたが、世に言う名人気質、つくっては壊し、つくっては壊し、神経衰弱になってやけ酒の毎日、都からは鐘はまだかの矢の催促。こうして、二年、三年、五年、六年経っても鐘は出来なかった。
加典には妹がいた。不幸にして夫に死に別れ、小娘が一人。ある日、道行く若い者四、五人が、なんだこれが加典の工場(こうば)か、鐘一つつくれず何が名人か、と冷笑して通り過ぎた。麒麟も老いては駑馬(どば)に劣る、というあざけりの声をきいて加典の妹は口惜しさに泣いていた矢先、また一人。白髪の老人が通りかかって嘆息してつぶやいた。気の毒にな、昔からよい鐘をつくるには人柱を立てねばならぬものじゃが。
妹はこれをきいて暗夜に灯(ともしび)のおもい、ばたばたと工場に走りこんできて、お兄さま、出来ました、鐘が出来ました。
話をきいた加典は、これよ妹、そんなことも知らないこの兄か。じゃが、だれを人柱にするのだ。兄は権門の家柄ではない。
妹には五つになる小娘がいた。妹はその子を鐘に鋳込んでくれと言った。妹よ、その子はそなたの夫との一粒種、わしにも可愛い姪じゃ、どうしてそんなことができようかと加典は妹を叱ったが、けっして殺すんじゃない、先王の菩提のための人柱と、真実まことをこめての妹の何度も何度もの頼み、ついに加典もこれを承知しました。不憫(ふびん)だが、どうにもならぬ心の底へとどく仏の声の涙の本願、では人柱に、と心に決めた加典、それからは芸術家ほんらいの姿に戻って工場に入った。
小娘に白い着物を着せ、なにもこわいことはない、とうさんの待つところへ行くのだよ、そこには私よりももっともっとやさしい真実の母がいる。言いきかせると、娘はすなおにうなづきました(南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、会衆のとなえる念仏の声)。
紫のけむりが立つ溶銅の中へ、堪忍してくれや、と心のうち、娘をこわきにかかえて投げこむと、たった一言、「母さーん」と叫んで姿は見えなくなった(南無阿弥陀仏……)。加典とその妹はその場にバッタリと倒れてしまったが、これではならじと起き上がって、せめてもの思い出に鐘の横に娘の姿をほりこみました。
加典はさっそく出来上がった鐘をついてみると、慶州の深夜にゴーンと鳴り渡る鐘の音。眠っていた人も、笑っていた人も、そしっていた人も、この鐘の音を聴いてみな起きた。おお、鐘よ、いのちの鐘よ、血の鐘、鳴って鳴って鳴り渡れ。仏の声を出してくれよ。
いよいよ十二月八日、鐘撞き堂におさめられて、ゴーンと式の鐘の第一声。どうした妹よ、おまえにはあの鐘の音が聴こえぬのか。ええ、兄さん、私にはなんにも聴こえません。そのときまた撞き出す第二の鐘。どうじゃな妹よ、今の鐘の音がきこえたか。いいえ兄さん、きこえたのはただ最後の一言、お母さーん。(南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……)おお妹よ、お前にもきこえなかったか、心ない人がきいたなら、よい鐘じゃ、よい音色だときこえるかもしれぬが、わしにもただ母さんとしかきこえなんだ。
弥陀の血のかたまり、肉のかたまり、内部感覚をとぎすませば、鐘の音の一声一声が、ただ衆生可愛いやな、衆生可愛いやな。
(平岡正明『平民芸術』(三一書房・1993年11月)P.347-348)
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(アフタートーク)
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広陵兼純(ひろおか・けんじゅん)師の伝える「加典(かてん)兄妹」という節談説経(ふしだんせっきょう)である。話芸をヒアリングで書き写したもので、音源は小沢昭一編『また又日本の放浪芸』(ビクター)LP六枚組のうちの三、そのダビング版である。
何回も聴いている。ジャーナリスト専門学校の講義にも用い、清水次郎長伝輪読会でもかけて卒論に説経節を選んだ森野という学生にも聴いてもらってもいるのだが(彼も「加典兄妹」をきいたのははじめてだった)、この説経は聞いた人にかならず感銘をあたえ、かつ各人の理解がまちまちなのである。
鐘の音には仏の声があって、衆生可愛やなという仏の慈悲を「内部感覚をとぎすませば」ききとれること――これはみな一致だ。
名人加典が鋳た名鐘をきいた人々は救われたか? ――ほかの人々は救われるだろう、という意見もほぼみな一致だ。
しかし、加典はすくわれたか? ――救われない。鐘撞くごとに、母さーん、という声に耳をおおい、地獄の鐘だろう、とおおかたの人が理解する。
娘は? ――ゼロだ。
では説経「加典兄妹」の宗教的意味は何なのか? この先から意見が分れて、この説経は、小娘を人柱にしたことはいいことだと言っているのか、悪いことだと言っているのかわからないのである。
人柱という行為については加典のことばで否定している、「わしは権門ではない」と。
人身御供の娘が自分の意志で、この世の罪なりを一身にひきうけて、自らを鐘の声に鋳込んだのだと十字架に上るキリストのように(阿弥陀佛信仰にはキリスト教に似た面があるが)理解することもできないし、感じることもできない。この娘は五歳である。また小娘=仏性であって、したがって清浄な鐘の声になるとも理解できないし、炎をくぐって肉体を消滅させ魂を不死にする寓意とも感じられない。この説経全体を通していちばん強いことばは「母さーん」という叫びである。それは仏や神の声ではなく、人間の断末魔の声だ。だから会衆は思わず「南無阿弥陀仏」ととなえるのだ。
五歳の小娘の死は、一切、彼女の意志にはよらず、母とその兄加典の意志による。母親がなぜわが子を人身御供にさしだすかと言うと、苦だからである。夫に死に別れ、母子二人で生きて行けないと彼女は考えていたからだ。だから炎の向うには父が待っているのであり、母以上の真実の母が待っているとわが子に説く。母の苦ということを広陵兼純師はひと言も言わないが、わが子を人身御供にさしだす母の理由が、王のため、兄のためである以上に、彼女が生きる苦にあることは感じられる。
では説経の主題はなにかになると、ふたたび、答えはでないのだ。でないが、しかし深い感銘がのこる。淫祠邪教の類とはまるでことなる宗教的感動とでもいったものが残るのだ。その深さの感覚は日本的風土とちがう厳しさの感覚とともにあり、一聴してこの物語が朝鮮から来たものであることがわかる。
(略)
――さる地方に若い仏教画家がいた。都から王のお召があり、仏画を描くために、新婚間もない妻を置いて都に上った。彼は一心に観音像を描いた。写経するように一筆ごとに念仏をとなえ仏を想い、一刻もはやく完成して妻のもとへ帰りたいと祈りながら描いていた。ある月の夜、池に妻の姿があらわれた。歓喜した彼は妻を抱きしめようとかけより、池に落ちて溺れ死んだ。
おなじだ。仏は無慈悲ではないかという感想がこの話でも残る。そして「加典兄妹」同様、信心を得ることの厳しさと話の美しさも感じる。朝鮮から日本に来る間に、仏教はどこか甘くなってしまったのではないかということも感じる。
(平岡正明『平民芸術』(三一書房・1993年11月)P.348-350)
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(さらにつづき、オチまで)
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残酷と残忍の別は弁じておくべきだろう。節談説経「加典兄妹」は残酷な話だが、残忍な話ではない。その物語の残酷さに迫られて、ことに溶銅に投げこまれた童女が「母さーん」と叫ぶ場面で、おもわず会衆が「南無阿弥陀仏」と唱える声、そのようにせっぱつまって衆生が仏を呼ぶ声に宗教の本質を感得させること、それが主題なのではないか。
(略)
人智を超えたところで仏がくる。つまり他力本願だ。
この物語に深さを感じるのは、南無阿弥陀仏とさえ言えば、仏がこたえてくれる手軽さ、語を変えれば黙ってすわればぴたりと当るといった売卜(ばいぼく)の類と仏教はちがうということだろう。そのためには説話自体が大切なのであって、前説だけ独立した坊主の屁理屈ではだめなのである。その宗教的本質は加典兄妹の苦しみにある。まさに編者小沢昭一が言うように、節談を芸であると排除し、芸の部分を切りすてて講話だけに切りちぢめた明治以降、仏教は死んでいる。
坊主を捨てて芸をとれ――これが結論だ。
(平岡正明『平民芸術』(三一書房・1993年11月)P.351)
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おれは何度この文章読んだのか、わからないけど、そして書き写してたりしてしまったけど今回、つまりときどき思い出しちゃうのね。30年前に読んで、30年後に写経しちゃったのはなんだっつうと、それはあの子の「お母さーん」って声よね。その声が忘れられないのよ。
いや小沢昭一、よくこれ録ってレコードにしたよね、どういうシチュエーションなのか(信者集会でしょう)、すごいと思う。
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