2023評bot (3)
評botの公開評をここでまとめています。どうぞよろしくお願いいたします。
一度の記事で最大4評とし、特に溜まっていなかった場合は1評でも記事にすることといたします。
趣旨はこちらのツイートをご参照ください。
それでは始めます。なお、ご利用者様の筆名は敬称略表示とさせていただきます。ご了承ください。
景としては、意中の相手のかばんを、相手が何かしているときだけなのでしょうか、持っていたのを、その必要がなかったので返した、ということだと思います。
「寂しくなるほど軽い」は、結構好きな表現です。「軽くて寂しい」だとありきたりだなと思うんですが、ちゃんと自分の感情を自分自身ではなくて、自分の左手に投影できている気がします。エモーショナルな一首だなあと思います。
気になるとすれば、まずは「返す」の時制です。これがダメだというわけではありませんが、現在形です。つまり、「かばんを返したとき」と「左手が寂しくなるほど軽いとき」に、時間の隔たりがあまりないように感じられます。
繰り返しになりますが、これがダメということではないです。ただ、個人的には、この軽さを覚えたり、「好きだよ」を思ったりするのは、返してから時間が経っているときなのかなと感じましたので、「返した」じゃなくていいのかとは思いました。
ここは作者の意図が優先される領域ですので、ご自身の心を優先ください。とはいえ、この歌は「返した」にすると二句八音の字余りになりますので、それを避けるためだけの時制調整だというのなら、時制を優先すべきと考えます。
もう一つ、「持っていた」は、率直に、平坦です。書かなくてもわかります。例えばこれを「預かっていた」とか「帰ってきたので」とか(どれも初句七音のリズムの例ばかりですが)、どういう状況で「かばんの返却」があったのかを書く方向に持っていくと、歌の景に一筆足すことができるとは思います。
それか、「しぶしぶと」とか「ほらよ、って」とか、どういうふうに返却をしたのか、主体の心情面に筆を足すのもありかなあと。短歌は短いので、なんでもかんでも詰め込めとまでは思いませんが、書かなくてもわかることをあえて書くのは、そこに意味を持たせるときなんじゃないかなとは感じました。
ご利用ありがとうございました。
これを、私を含めた全読者に投げかけているんだよな、ということを思えば、端的に「うぜ~」と思ってしまいましたが、歌の主体とその二人称的な相手とのコミュニケーション、関係性という要素に絞って読み直したときに、なかなか心を動かされる要素がある歌だなあと思います。
主体のほうに絶対音感があるのかないのかは書いてありませんが、おそらくないものと読んでいます。さすがにある状態でこれを言うのは意地悪が過ぎるかなというのがありますので・・・
私も絶対音感はおろか、相対音感さえありませんので、絶対音感を持つ人に、その辺の音を音階で教えてもらったときには、それを信じるしかありません。これは能力ですので、しょうがないです。そういう意味では、絶対音感を「信じるよ」というときの「信頼度」は、結構高いはずなのです。
それを踏まえた上で、下句「今の信じるよはどうだった?」というセリフから、主体がこの相手に「信じるよ」を信頼されていないんだな、ということがわかります。このへんの探り合いというか、ほほえましいやりとりは、いいなと思います。
ところで、これをほほえましいと思えるのは、「信じるよ」の力なのかなと思います。例えば「嘘じゃない」だとしたら、「嘘じゃない」が信じられてない関係性ってよろしくなさそうですよね。ところが、「信じるよ」が信じられないというのは、なんだかおもしろい。その本質を言語化してしまうとすり抜けるものがあると思うのでやめておきますが、安心して観ていられるコミュニケーションのショーをやってくれている、そういう印象の歌です。
特に、気になるところのない歌でした。
ご利用ありがとうございました。
取り合わせの異なる表現をぶつけて、そこから引き出されるイメージをもって勝負する短歌があることはよくわかりますし、そういった秀歌もたくさんありますが、ちょっとやりすぎちゃったのかなという印象は否めませんでした。一つ一つのぶつけ方はいい塩梅だと思うのですが、全体として見たときに、何がどうなっているのか、把握するのが困難です。
「えいえんでしかしポップ」というのは、逆説がある以上、「永遠」に対置される「ポップ」があるということだと思います。ポップと言うと大衆的とか、今風とか、そういうコンテンポラリーな感慨があるようにも思いますので、確かにそこを取り出せば逆接か、と納得はします。
それが、「死生観」といわれると、なんなのだろうと迷います。「ポップな死生観」ならまだしも、「えいえんの死生観」とは・・・時代や考え方によりけりなのではないかという心理が働いてしまうのではないでしょうか。
下句で解明される「メトロノームを治めるゆび」というのも、「治める」とはいかに、というのがむずかしいです。「メトロノーム」という言葉をもってきたことは、この歌として効いていると思いました。「えいえん」に通ずるものがあります。「ゆび」も、その性質だけ見れば、「メトロノーム」と近しい形状、動きを想起することができるのですが、「治める」とは。しかもそれは「死生観」だと言います。なんなのか。
私は、意味の分からない短歌も好きです。ただそれは、分からないなりにも、テクストやイメージに入っていけるものというか、チャネルというか、そういう引き寄せるものに出会えるからだと思っています。この歌は、チャネルの数が多いですね。
もし、作者として一本の意図をもって短歌を書かれている場合は、もう少し言いたいことを整理し、絞ってもいいのかなとは思いました。
ご利用ありがとうございました。
歌意としてはよく理解できますし、心が動くところもあると思います。
初春のこたつにうっかり寝てしまったら、夢に今はもういない犬がでてきたという景ですが、「こたつ」で寝入ってしまう様を「溶けて」という表現であらわすのは巧みだと思いますし、「もういない犬」の儚い存在感にもポエジーがあります。
「初春こたつ寝」とは、普通に造語の域に入っていると感じましたが、わかるので、これでもいいとは思います。
「夢色に」という導入が効いているのかどうかは、ちょっと立ち止まって考えたいところです。ただ「夢」と描写するよりも、空気感といいますか、夢という空間、エリア感がするなと思えるので、決して悪くはないと思います。ただ、「溶けて」とつながっていくときに「〇〇色に溶ける」というレトリックは、溶け方のイメージを損なわないか、気にもなります。
また、「あらわれ」という表現自体も、表現の工夫次第ではいらないかな、とも思います。いらないというか、代替できるのではないでしょうか。
「夢に」ときて「現れる」というのは、自明です。例えば「夢で笑うもういない犬」でも通じます。ただ、「でてきた!」という印象を強めるために「あらわれ」選択することも十分に考えられますが、その際も、どのように現れてきたのか、具体的な動作を導入することもありでしょう。
もちろん、夢ですので、そんな具体的なことを書いていられるかという気持ちで、このままお進めいただいてよいものとも考えます。
ここまで書かせていただいたのは、「初春こたつ寝」という語彙もあり、全体的に接続がぎこちない印象を受けるからです。日常表現を詩的表現に置き換えていこうという気持ちはすごく大事だと思うのですが、スムーズに言葉を運ぶところは運ぶ、ひねるところでひねるメリハリがあってもいいように考えます。
ご利用ありがとうございました。
今回は以上です。いつものように宣伝だけさせてください。
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