自選五十首評③ 海月ただようさん

自選していただいた五十首をこちらで読みまして、歌評ならぬ歌人評の練習台になっていただく企画、第三弾である。おかげさまで第六回までは続くことが決まっている。わーい。わっしょい張り切っていきましょう。

今回取り上げさせていただくのは、海月ただようさん。ウェブサイト「うたの日」によくご投稿されており、別名で「短歌人」にても活動されている歌人で、いただいた五十首評は基本的に「うたの日」への投稿作品とのこと。「うたの日」の性質上、一首立ちする歌がよく集まるので、自選もそれぞれ一首で立っているものが多かった。というかほぼすべてそうだったと思う。

その中で、ただようさんらしい目線や人生観みたいなものを僕なりに感じたので、そういう方向で述べていこうと思う。以降、引用歌はすべて海月ただようさんの作品だ。

夕焼けを水平線まで連れていく土曜の電車をぼくは降りない
デパートで迷子呼び出し聞くたびに五歳のぼくが待っていそうで
逆風を篭からあふれるほど詰めてペダルを漕ぐぞフラれに行くぞ

どばっと三首引用した。これらの歌に共通するものは、「子供の視線」だと思う。

一首目、日の沈むさまを電車側に手柄を引っ張ってくるさまと、そこから降りない主体が相まって、きれいな景が静止しているようで、無邪気だ。二首目、歌として主体は子供ではないかもしれないが、見つめているものが「五歳のぼく」である以上、視線は幼児化した主体になる。三首目、相聞感情がネガティブなのかポジティブなのかわからないけれど、青春チックにつづられるレトリックが面白い。

それぞれ、どこか陰のある心理をもちつつ、大人じゃない主体がどこかにいる。それは懐古かもしれないし、現在かもしれないし、空想なのかもしれない。ただ、この「若さありあまる層」になりきったとき、エモーショナルなアウトプットがあるのがただようさんの特徴の一つではないかなと感じている。

脳内でいい日旅立ち再生し通勤電車に運ばれていく
ぼんやりと恐怖の大王待ちながら毎朝無精卵を割ってた
もういないあなたへ買ったドーナツの穴がおなかに残りつづける

対して三首引いてきたものは、逆に「大人の視点」なるものを表している気がする歌たち。さっきの三首とパラレルになるように、意識的に並べてみた。電車の歌/不安の歌/相聞感情の歌、というようにだ。

通勤電車の歌は、まさに働く人を体現している。「いい日旅立ち」の、暗くない歌詞ながらどこか物憂いメロディ。それが通勤電車に重なると、しょうがなさとかなしさがこみあげてくる。無精卵の歌の、無常観。デパートの歌が、どこか未来に対しての「このままでいいのだろうか」という感覚だったのに対し、「終わるかもしれない」感情がフラットに描かれている。相聞感情の歌も、自転車の歌と同様うまくいっている気がしないのだけれど、不在を当たり前のように受け止めている。

これらネガティブは、大人の視点だからこそ描けるものだ、とまでは思わないのだけれど、このように並べてみると、対照的というよりは成長に合わせた感覚の移動、のようなものを感じる。基本的にはネガティブで、そこに達観が加わるような感じといえば、近いだろうか。

せめてもの罪滅ぼしに甥っ子はネンネと名付けし毛布をさし出す
夕暮れの庭をおもちゃのスコップで掘って金魚の夏の小ささ

ところで、子供の視点/大人の視点を使い分ける印象をこれまで述べてきたが、「大人として子供を見る視点」の歌も特徴的だと思った。実際に甥っ子がいらっしゃるのかもしれないが、甥っ子を詠んでみたり、おもちゃのスコップの歌は主体自身が子供なのかもしれないけれど、金魚の把握の仕方が大人に近いので、むしろそういう子供を眺めているようにも取れた。

こういった歌のときは主体の感情より優先される外の景があって、ネガティブな心象やそういったものはあまり感じないのだけれど、このあたりを詠みこむことに興味がある、ということ自体が、先に挙げた六首のような歌作りをベースにさせているのかもしれないな、とはちょっと感じた。

欲しいのは否定のことば 背を向けてたまねぎ規則正しく刻む

話を戻して、ではそういうただようさんの歌人としてのメンタリティはどのへんにあるのかなあなんてことを五十首から読んでいくと、掲出歌がメインストリームに近いかな、という気がした。自分に自信がない感じ、罰せられるのではというなんとなくの予感。このあたりのぼんやりした感情は多くの歌を覆っていて、なおかつ、背を向けてたまねぎを刻む「親っぽさ」を「子供っぽく」みているところがあったので、おっと感じたのだと思う。

それらの語り口は基本的にはモノローグで、あまり外のことについて言及しようとはされない。それもまた、自信のなさなのかもしれない。外のファクタを言語化するときは、観察にとどめている印象もある。

いつの日か遠くに行こうときみの言ういつかかが一番遠くにあるね

そんな中で、ちょっと人生観めいているかなと感じた歌もあった。これも明るい歌ではない。ただ、掲出歌全体から感じる、人生そのものには暗くとらえているものの、それ自体を否定しないような、その中で生きていくぶんには仕方がないと考えているような芯。これがあるからこそ、「地に足をつけてない人」に対するシニカルな目線を出した掲出歌につながっているのかな、と思っている。

人間を続ける自信はないけれど人間以外もっと無理だし

そこにきてこの歌を持ってくるのはかなり恣意的である気もするが、「ああー」と思っていただけるのではないかなと感じている。

弱さ、暗さは確実にある。けれど、しぶとさもしっかりある。その達観を形成されるに至ったヒントが、子供の目線の歌にもあるのではないかなあ、なんてことを感じていたのであった。

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