自選五十首評⑧ 尾崎飛鳥さん

いただいた自選五十首をもとに評を書く企画の第八回になる。これにていただいている方はすべて。もし書かれてもいいよという方がいらっしゃれば、いつでもお待ちしています。

そしてお待たせしました今回取り上げるのは尾崎飛鳥さん。インターネット上や投稿歌壇を中心に短歌を発表されている方だ。ご本人も、わかりやすさを詠みにおいても読みにおいても心掛けておられる趣旨のことをおっしゃっていたような気がする。とにかく一首ずつ、すっと意味が取れて腑に落ちてくる歌が並んでいて、楽しめた。僕は意味の取りにくい歌ばっかり喜んで取り上げているイメージがあるといわれたことがあるが、しゃべりたい歌をしゃべっているだけであって、尾崎さんのような歌も好きだ。

さて五十首読み終えて、最初に思ったことは、

連作か、これ?

であった。それくらい、主体がぶれていなかった。尾崎さんの日常的なSNSの投稿はよく目にするが、この歌の主体とネット上の尾崎さんは重なるところもあるように思う。だから自分を投影している歌もあるのだろう。ひょっとしたら、そればっかりなのかもしれないが。とにかく、トーン、スタンス、感情、関係性のとらえ方に、一貫性があった。

付き合ってほしいと言うが好きだとは言わぬ男と迎える朝日

一首目がこれだった。わかりやすいが、当たり前のことを言ってはいない。「体の関係」という軸が、「好きだ」という言葉より「付き合ってほしい」という言葉に寄っていることを指摘している。最初、逆ではないかと思う。ワンナイトラブ的なものを思えば、だ。ただこのように書くということは、付き合ってほしいの「ほしい」の軽薄さへの着目でもあり、本質的に「好き」の永遠性への着目でもあると思う。

バスタオルさえ巻かないで左手の親指の腹で言うさようなら

メール一本で別れを告げる主体。「腹」で「言う」の表現に面白さがある。それはそうとして、「バスタオルさえ巻かないで」の、説得できているようで一般的じゃない感覚が面白い。メールなんだから、相手はここにいないわけで、バスタオルを巻く/巻かないはわからない。これは、相対する自分の態度の話なのである。

これら二首から、主体の人間関係に対するドライさと律義さが見て取れる。たぶん、「ちゃんとした好き」は欲しい。だからそういうものには敏感だ。

とりあえず、彼氏いる?って聞かれたらいますと言える用の彼氏だ

読点が好きだ。「とりあえず、」は主体の発話。挿入としての「彼氏いる?」だろう。はきはきとした口調の展開から、なかなかえぐいことを言うトーンがよい。べつに彼氏がいなくたって、彼氏いる?に対して「います」とうそをつけばよいのだ。でもこの主体は、そういうことをしたくない律義さがある。だからいますっていいたいなら、仮の彼氏でもいいからつくりたくなる。尻軽とはまた違う、律義さからくる、まあいいかの感情だと思う。

分けて分けて持ってた荷物まとめればノンノの付録バッグひとつ分

さあ関係も結構深かったし、別れが来てしまったし、自分の荷物はどんなもんじゃいといった気持ちのふくらみが「分けて分けて」のふくらみにあるようだ。それが大したことなかったことを指す下句は、秀逸な表現だと思う。

そしてこの主体は「ノンノの付録バッグ」が似つかわしい主体だ、となんとなく思ってしまう。これは明らかに、ほかの歌を重ねて読んできた感傷がある。実は今回、いただいた五十首から気になった歌を、順番に引いている。歌の中で頻繁に関係性が終わってしまうのだが、こういう、あっけなさみたいなものを、そりゃ描くだろうなという関係性なのだ。

あの夜の公園で見たシャボン玉のキラキラだけは忘れないでね

こうなってくると、この歌も一首単体鑑賞とは違った見方をしてしまう。普通に読んだらこの歌は「あの夜」に思いをはせる歌だ。どんな夜にシャボン玉を見たんだろう、という広がりのある歌。しかしなんだか僕は、「キラキラだけ」の「だけ」に注目してしまった。つまり、自分との思い出を忘れてしまう相手に忘れてほしくない「ただひとつ」がこのことであるのは「なんでなんだろう」と感じてしまう。

それは尾崎さんの歌で、主体の持つ関係性への律義さとドライさが、現実の関係性においてうまくいってない切り取り方の積み重ねがあるからだろう。事象よりも関係性をベースにした読みに、引き込まれてしまうようなトーンが通底しているのだ。

夜に会うことを許してしまうからいつまでたっても二番目なんだ

その通りだ。昼に会えなきゃ二番目だ。もちろん主体にもこの人がいい、という恋愛感情がある。それはどうも、中途半端にうまくいっているのだろう。これはものすごく「うまいこと言ってやったドヤア」な歌、の、はずなんだけど、そうは感じないのは、思い切り自分自身に向かって言い放っているからだと思う。

あの人と別れたからって順番が来るはずないけど別れてほしい

やはり、その通りだ。まあこちらの場合は二番目ではないのだろう。単純に、好きな人が誰かの恋人で耐えられないという「一般的な感情」を、「けど」という逆説で意外性のあるように演出しているから面白く読める、という側面がある歌だと思う。この二首のような、シンプルにうまい言葉回しの歌は、ともすれば「言ってやったぜ」というきざったさがついてきてしまうのだけれど、尾崎さんの歌の主体に通底するトーンのおかげか、ただただ共感する。

ブレザーもセーラー服も知っている子にはなんだか負けた気がする

まあ、普通制服はどっちかだろう。なんで両方しってるんだろう。コスプレかな。みたいな、よくわかんない経験豊富さを感じ取っている。よくわかんないから「なんだか」なんだと思う。

尾崎さんの歌は、基本的に「自分の勝利」ではなく「自分の敗北」のときに生まれている。それも、勝負して負けているというよりは、勝手に負けを悟ってしまっているような。その根拠となる心情は、そもそもの「関係性に対する律義さ」なんだと思う。平易に、わかるように、記述されてはいるが、繊細なとらえ方だと感じる。

言いたいこと色々あって影を踏みながらあなたの後ろを歩く

たぶん「影」はあなたのことなんだろうし、そんなに考えて書いてはないのかもしれないけれど、もちろん主体自身の影も踏んでいるわけだ。影の重なりを狙って踏んでいる。そしてそのとき、確実に下を向いている。ドライさをもっている一方で、こういうウェットさも示される。

好きだった耳のかたちをゆっくりと嫌いになってゆく梅雨の朝

耳のかたちが好きで、その人を嫌いになったとき、たぶん耳のかたちは嫌いにならないことが多いんじゃないかと思う。その人の在り方が嫌いになるだけで、そもそもかたちが好きだったわけで。でもそうじゃなかったんだな、かたちというのは心情込みのかたちだったんだな、あるいはかたちが気持ちをひっつけてくるんだな、というじめじめした感情は確かに梅雨の朝のものだと思った。

こうして五十首を読んだときに立ち上ってくる、関係性に敏感なあまりドライになってしまう、どこかこだわりのある主体。そのあまりの強固さに、これが尾崎さんなのかな、なんてことを考えてしまったりする。それはまあ、別の話だ。それくらい、「主体が読める」五十首だった。

ケータイが進化したから終電を上手に逃すことができない

うん。できないだろうな、って思う。


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