自選五十首⑦ さよならあかねさん

いただいた五十首からその人の歌人評を含めた文章を書くという企画の第七弾になる。なんと、前回から一か月もあいてしまった。しかしこれは応募がなかったわけではない。むしろ前回の時点で二人も残っていた。これはどういうことかというと、もう正直に言ってしまおう。今回取り上げるさよならあかねさんが難敵すぎて完全に止まっていた。二か月くらい放置していたんじゃないか。すいませんほんとすいません。

さよならあかねさんはなんと、僕に応募するより前に五十首を間接的に僕向けにnoteに発表してくださった方だ。これを発見した僕はテンションがあがり、これは書かずにはいられないと五十首と向かい合ったんだけど、フリーズしてしまった。その、フリーダムっぷりに。

そこで、今回は僕もフリーダムに書いてみようと思う。この企画も過去六回やってしまっていると、どうしても型みたいなのができてくる。それに当てはめられないんだから、それは一回、考えないでおこう。

ということでいきなりぶっ飛ぶけれど、僕の話をする。

僕は短歌をモノローグだと考えている節がある。しゃべる「わたし」が、いる。それが僕の中での短歌だ。しゃべりかける先は決まっている必要はないし、いくらでも嘘をついたらいいと思うんだけど、絶対にしゃべりがある。僕はそう思って他人の短歌を読むし、こう読むからこそ、歌に「いるはず」の「しゃべっている人」に想像あるいは理詰めで肉薄することができる。

さよならあかねさんの歌は、まずこの肉薄が、途方もなく困難だった。まずもってここにびっくりした。

新機種に女子高生ら群がって「いっせーのーでほろんじゃおっか」

わからなくはない。いろいろな雰囲気が流用されていて、なにを指していると断言することはできないが、わからなくはない。「新機種」と言えばなにかSFによくある異形生物の想像力を。女子高生の群がりと頽廃的なセリフは、例えば「自殺サークル」という作品の想像力に近いものがある。

こういう、パロディ性を含んだ歌というのは、この企画でもさちこさんであるとか、根本さんを取り上げたときにも言及した。しかしそもそもパロディ性をもって歌を詠むということは、その「パロディしたこと」でなにかをしゃべるということだ。うまいこというのか、ずらすことをいうのか、そのあたりはさまざまな手腕が考えられると思うけれど、とにかくそういう「なにか言うぞ」という気概があって、それがモノローグ的に「主体」に近づけるヒントになるのだ。

しかしこの歌にはそれがない。ただ、言葉選びはどこか、パロディ的だ。つまり、自分のオリジナルでつくった概念(そんなもの、ありゃしないのかもしれないけれど)ではなくて、借りてきた言葉。でもそれで、何かを言おうとしているわけじゃない。

歌としての良さはある。と思う。少なくともこの歌から匂ってくる頽廃的な感じは、僕にとっては好ましい。しかし、これを語っている主体の、借りてきた言葉を自分の意志を紛れ込ませずに紡いでいるその感じに、歌としての良さには近づけても、主体に近づくことができない。

もう誰も苦しまなくていいように「爆ぜろ」グレープフルーツジュース

「爆ぜろ」の、パロディ感。を、グレープフルーツジュースで落とす。その原因として「誰も苦しまなくていいように」(この表現も借りてきた感じがある!)としている。主張じゃない。でも、グレープフルーツ/爆発/ジュース、みたいな把握はできて、歌の鑑賞文自体は、書ける。

蚊柱の中には宇宙があるんだよ小林くんが息をしてない
田中くん想像力の限界まで豆を食べるのやめてくれない?

面白いくらい、主体がいない、いやいる、小林君や田中君をこんなにも観察して記述しているはずなのに、主体が感じられない。

パプリカの黄色いほうを投げるから勘違いして恋に落ちてね

もちろん、そういう歌ばかりではない。ちゃんと主体がいて、語りかけているモノローグの歌もある。しかしそのコミュニケーションの仕方は、「通じる」ことを望んでいないかのようだ。「勘違いして」落ちる「恋」は「恋」ではないはずだが、その迂遠な言い回しが好意の裏返しだと読むことはできる。読者としてはそのひっかかりに食らいつくので精一杯なのだけど、そもそもなんでパプリカの黄色いほうなんだ、、、!

だーれだっ ①この世全ての悪 ②愛の伝道師JUNO ③ふふっぼくだよ

だれだよ、、、!

歌に「ぼく」が出てきてくれたので引いたけれど、JUNOのうさんくささがなんで登場したのかわからないし、ただ①も②も「ある」言葉で「借りてきた」言葉で、それに「ぼく」が③なのだ。③。選択肢に、いるんだ。「ぼくだよ」が「答え」じゃなくて。「選択肢」。

そっかそっか砂鉄をまとう海鳥が消える場所まで歩いていこうよ

もちろん、コミュニケーションはある。からこその、「そっかそっか」なのだ。つまりそこまでは「共有」がある。その先の、「砂鉄をまとう海鳥」が存在するコミュニケーションの世界線に、読者として立てない。再三繰り返すが、一首鑑賞はできる。砂鉄をまとう海鳥を想像することができる。過酷な環境から来て/どこかに行く海鳥、を、想像できる。そのイメージの豊かさはあるだとう。いい景だ。それが消える、見えなくなるまで、歩きたい。そのこころもわかるかもしれない。景として。それはわかる。何度も言っている気がする。一首としては迫れる。

だけど、それは、歌が、主体が言っている、コミュニケーションの文脈においては、理解しえないものなのだ。

そして、なんとなく思う。さっきから僕は、「わかる」「わからない」という軸でものを言っている。ただ、「わかる」ことがそんなにすごいのか。「わかられない」ことって大事なんじゃないのか。

もしかすると、さよならあかねさんの短歌は、「わかられないようにしている」のかもしれない。

それはもちろん、歌としての良さを捨てるということではない。わからなくたっていい歌はある。そういう、豊饒な想像力をもって作品世界を構築するような。

たださよならあかねさんは、そのメソッドでそれをやっているようではない。たとえばパロディのような借りてきた言葉の文脈。たとえばコミュニケーションが成立している関係性での文脈。そういった文脈で紡がれる歌は、本来「共感される」もので、「わかられるもの」で、「あーそうだね」でなんぼの世界、だった、の、かもしれない。

少なくとも僕はそういう土壌にいて短歌を読んで詠んできたもんだから、この五十首には面食らってしまった。そして、そういう逃れ方を「したくなる」っていうのも、なんか共感できる気がして(この共感は、さよならあかねさんからしたら心底いらないものなのかもしれないけれど、、、)、唸っている。

ガラス越し見えないふりのさよならで春行灯の安堵の部分

えてして「わかること」から逃れる短歌を書くひとは、言葉の音そのものに着目されることが多い、気がするんだけど、それはさよならあかねさんもそうだと思った。「はるあんどん」の「あんど」の部分。「見えないふりのさよなら」に「安堵」はくっついてくれて「わかりやすい」んだけど、取り出す対象が「春行灯」なんだ。っていうのはある。でも、さみしいなっていうのは思う。それは歌の狙いだろう。

ひこーきはハクナ・マタタとつぶやいて日付変更殲滅曲線
おにょーめおにょーめ天ぷら鍋火災いまから水をかける鬼嫁
しゃあぷなる占星術と砂の脳 貝 貝 女 海はするどき
いーりゃんさんすーありふれた人生をやり直すための薔薇の花束

どばっと四首、並べてみたらさよならあかねさんの「言葉の音」に対するとらえかたのクセみたいなのが出てくるかな、と思う。ひらがな書き、というのはひとつ特徴的だ。それはある種の幼児性をはらんでいて、実際さよならあかねさんの歌の文体に結構反映されている気はする。そこにある、「幼いのに知能が高い感じ」が歌にもたらす雰囲気が、これら引用歌を読むにあたって迫ってくるのだけど、これはまた「しゃべっている主体の鎧」であるようにも感じるのだ。絶妙に、逃げられてしまったような。

(空想の世界じゃおれもちょっとした)ねぇおじさんもちゃおが好きなの?

最期に、一番つかめて好きだった歌を。パーレンの中に、やっと「主体」が出てきてくれたような気分になった。空想の世界ならだれでも王になれるんだけど。でもそれを言っちゃいたくなるような自分の現実の無力感みたいなのはすごく「わかる」し「モノローグとして共感」してしまうんだけど、やっぱりそういう主体に投げかけられるコミュニケーションが、「ちゃおが好きなの?」なのだった。その意外性に驚ける歌なんだけど、「わかりにいく」僕の汚れた手を、歌はするりとまたも抜けて行ってしまったのだった。



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