評bot 10
今回も始めます。なお、十回目ということでここまで続けさせていただいていること、御礼申し上げます。
趣旨は下のツイートをご参照ください。ご利用者様は敬称略にて失礼いたします。
改札でゴミを捨てない乗ってない人身事故はすぐに忘れる /千吉
二句切れの歌なのかな? と思いました。同じ駅の景なのですが、二つがスッとつながるかといえば私にとってはそうではなかったです。
下句、厳しいことを言っているようで、都会的な共感はあります。「人身事故」を「覚えさせる」ものって、「ほんとに現場を見てしまう」か「べらぼうに遅れる」な気がしていて、前者って意外とそうなくて、後者の比重は大きい、よなあと気づきました。乗ってたら遅れるのは必定ですし、そういう「事故」を「ディレイ」で判断してしまうとこ、あるよな、、、というところに気づかされたのが、いい意味でウッとなりました。
「改札でゴミを捨てない」というのは、改札にごみ箱はよくありますので、それがいいことなのかどうか、主体の気持ちをつかめないというのが正直なところです。ただ、下句からどこか感じる「時間に追われている感じ」をもって読んでいくと、改札はほんとうに通過するところなのだ、みたいな感慨も想起することができるかなあ、どうなのかなあ、という印象です。
ちょっとこの歌は私の読みの実力のほうが追いついてないかもしれないです。私は読めていないが、うまくいっているんじゃないかという予感がうっすらとあります。
ご利用ありがとうございました。
外連味でバイトをいなす夢見ても手垢まみれのおもろい皮肉 /無縁
なかなか使わない語彙のあっせんがある口語短歌だなと言う印象です。「外連味」「いなす」わかりますけどね。個人的には「外連味」のある「どんないなし方なんだろう」を、教えてほしいなあというのはあります。抽象的な夢の話というものは、どうとでも取れすぎるので、自然に立ち上がってくるものに欠けると思います。
とはいえ言いたいことはわかるというか、夢でイキっても結局は、みたいな感じが出ているとは思います。「手垢まみれ」なのに「おもろい」というのはフックになっていると思います。ただ、「外連味」なんて言葉のほうがインパクトが強いんですよね。「おもろい」がフックのはずなんですけど目立てていない気がします。やっぱり上句はもっと平易かつ具体的な言葉の方が下句の効きがよくなる気がします。
これはいただいた短歌の捕捉を拝見して思ったことなのですが、「おもろい」に「もろい」を見出したい、が、あるのかもな、という感じなのですが、うーんそれを伝えるのは難しいかもな、という印象です。分からないでもないのですが・・・
ご利用ありがとうございました。
歯磨きも食器洗いも洗濯も鍵も電動化してあげよう /うきすけ
「鍵」の「電動化」ってなんだよ、というツッコミどころが読みどころなんだろうなという感想です。なんなんでしょうね。電子鍵はありますけど。「動」がおもしろいですね。想像するだけで面白いです。自動的に勝手に閉まるやつってありますが、それを「電動」って言うのかなあ、がありまして、でもここのズレはなんか面白いのです。
が、まあ、そこで止まっちゃうかなとも思います。「電動化」を「してあげよう」っていうのが、「お前できるの?」って思っちゃうところがあります。そういう設備を導入してあげよう、ってことだと思うんですけど、そうすると「電動鍵」「できるの?」があって。電子鍵のことを言っているだけならできそうですが。
たぶん、生活環境の便利な「電動化」から、監禁を思わせる「鍵」までやっちゃうよ、と語りかけるホラー短歌の路線を狙っているのではないかと推察するのですが、この「こわい」と「鍵の電動化という表現」の「面白い」がバッティングしてなんかなあというのがあります。あと、こういう電動化の順番って電動化が当たり前のものから並べていくのがいいんじゃないのかなと思いまして、そうすると最初に出てくるのは「洗濯」なんじゃないかという気がしたんですが、ここはまあ、お任せします。
ご利用ありがとうございました。
大嫌いと捨ててきた筈のふるさとの天気予報を確認する朝 /えるは
ポエジーという意味ではいい短歌だと思います。捨てた故郷の天気をなぜか気にしている、というのは、故郷に対する無意識の未練が感じられますし、私のような別に故郷を捨ててもいない人間にも「そういう感慨はあるんだろうな」という共感を呼んでくれるからです。
ですので、このままで全然問題ない短歌だと思うのですが、個人的な好みを申し上げるとすると、ちょっとそのまま全部言いすぎている印象です。「大嫌い」と「捨ててきた」「筈」の「ふるさと」の「天気予報」を「確認する」「朝」。完璧です。完璧にどの要素もストレートです。ただ、「筈」はなくても、捨てた故郷の天気予報を見れば「筈」が分かりますし、「大嫌い」も「捨ててきた」んならまあそうだろうなあと思います。
歌に動きをつけるとすれば、ふるさとの「捨て方」がどうだったかを書いてみるのがいいかもしれません。「確認する」あたりは結構いい表現だと思う(「見る」よりさらに見ているニュアンスがあります)ので、そのまま残しても効いている表現だと感じます。
ご利用ありがとうございました。
短歌にもできたであろう光景にあ、すごいしか出てこない語彙 /笠原楓奏(ふーか)
なんかちょっとアンチ短歌みたいなものを感じる歌です。この「光景」を「短歌にする」ことはできるんだけど、「語彙」としては「あ、すごい」しか出ない、というのは、一見「短歌にできると思ったけど、あ、すごい、しか出てこなかったよ~」のようでいて、どこか「短歌にこしらえることはできるけど、発話としては、あ、すごい、くらいしかないんだよ」に思えます。
つまり、「語彙」とは短歌の語彙ではなくて、光景を見たときに感じるそのままに出てくる語彙という含みを感じます。裏返せば、短歌の語彙とは、そういう感情のままに出てくる語彙ではなくて、あとから頭でこしらえたものでしかないでしょうよ、ということを、この歌は言っていないんですが、言っているようには感じます。
こういうアイロニーがどうなんだろうというのは、個人的には「そりゃそうでしょ」と受け入れられてしまうところがあるので、切れ味という意味では不足しているように感じましたが、そう感じていない人には刺さるのではないかと思っています。そして歌にそういうアイロニーの意図がないのであれば、ちょっと、あまりにも「短歌を作れなかった人の歌」すぎるなあという気はするのです。
ご利用ありがとうございました。
今回は以上です。
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