2023評bot (2)
評botの公開評をここでまとめています。どうぞよろしくお願いいたします。
一度の記事で最大4評とし、特に溜まっていなかった場合は1評でも記事にすることといたします。
趣旨はこちらのツイートをご参照ください。
それでは始めます。なお、ご利用者様の筆名は敬称略表示とさせていただきます。ご了承ください。
詩情も何もない形でこの歌を叙景すると、厨房に活けていた冬薔薇が、お屠蘇の支度をする頃に枯れたということかなと受け取っています。「旅立ちぬ」の主語が必ずしも確定しませんが、主体か冬薔薇のどちらかだろうとは思いますし、主体だとすれば、さすがに冬薔薇との取り合わせがよくわかりませんので、ここでは冬薔薇が旅立ったものと読んでいます。
景として、よく短歌になる一瞬だなというのが素直な感想です。冬薔薇というと、咲き狂うというよりも儚く咲いているイメージがありますし、それが終わってしまうときというのが、お屠蘇のタイミング、つまりはお正月という縁起良い年始であるということ。ひいては、お屠蘇は長寿願いの側面もありますから、そういう年始の支度まで見届けて、自らはその生を終わらせた、という切り出し方だと思えば、グッとくるものがあります。
一方で、「東雲」がはたして効いているのかどうかは気になります。東雲とは、空模様のことですが、ほぼほぼ夜明け前という時間帯を指定する語だとも思っていまして、この歌で言うと、
・東雲のころの厨房に活けた冬薔薇が~
なのか、
・厨房に活けた冬薔薇が、東雲のころのお屠蘇を支度し終えたときに~
なのかがわかりません。構造としては前者っぽく思ってしまいますが、それだと歌にフォーカスすべき時点がダブルことになり、どこかぼやけます。後者であれば素直に納得できますが、語順がその読みを大きく妨げます。
全体的に、景を立たせるよい言葉回しを選択し続けたことが、裏目に出てしまっている要素があるとは思います。語の力が強い歌ですので、「冬薔薇」と「屠蘇」以外の語彙は抑制的なものを選択されるのも一つかとは思いました。
ご利用ありがとうございました。
天文学に関する正確な知識がありませんので、「ビッグバン」という現象が、惑星が炸裂したことによって起きるのかどうかはよくわかりませんが、「ビッグバン」によって「新たな宇宙」が誕生するのだろう、ということはなんとなくわかります。
こういった宇宙的で壮大なモチーフを、この歌では「スウェットの上」になりますが、身近でミニマムなアイテムの上に再現するレトリック自体は、多くの歌人が触ったり、触りたくなったりするものだとは感じるものの、いつ読んでも楽しいものです。
さて、この歌に出てくる「惑星」「宇宙」が、真に主体のイメージでしかなく、たんなる幻視の歌だとすれば、とくにこれ以上申し上げることはありません。なるほど、とは感じますが、そこから踏み込んで心を動かす要素はないかなという印象です。
ただ、ここは推測でしかありませんが、この歌がなにがしかの実景を元にしていて、それをレトリカルに表現したものだ、という可能性もあるのかなという気はしています。
なぜかというと、「スウェットの上」というものは、食べこぼしやお菓子のくずのような、小さいものが飛び散りがちだと私が考えているからです。
スウェットの上で、指で何かをはじき、それが宇宙的なひろがりと始まりの予感を見せた、ように見えた。という感慨は、短歌として成立しうるものだと思います。もしも、この歌が、そう言った実景に根差した何かを描きたかったのだとすれば、歌の語彙の選択として、そこに根ざすものが必要です。
なんとなく楽しそうな幻視の歌だな、とだけで片づけてしまうことは簡単ですが、言い回しやフォーカスのしかたを工夫するだけで、もう一歩読みがいのある歌になるんじゃないかという気はするのですが、いかがでしょうか。
ご利用ありがとうございました。
「鋭い毛先」が、主体の(おそらく)髪なのか、ペット的な存在の毛なのかという読みの分かれ方自体はあるかとは思いましたが、ここまで主語が書いていないと前者で読むべきなのでしょう。
また、失恋すると髪を切る、という現象は一般的に認知されていますので、そのことをうたっていると素直にとることもできます。普段は少なくとも肩まではある髪の主体が、失恋のたびに髪を切り、そのときだけ首筋に毛先があたる。そこを「次はいつ失恋するの」という擬人的な問いかけに落とし込んでいる。ポエジーだと思います。いい歌の要素です。
ただ、ちょっと主客の把握が甘いというか、定型に収める助詞回しが擬人化の厳密さを損なってしまっているように思うところがあります。
上述の読みを前提にするならば、「次はいつ失恋するの」と聞いているのは誰なのか(というか、何なのか)、という問いが発生します。これには二通りの解法があるはずでして、
①「鋭い毛先」が、聞くように「首筋」をつつく。
②「首筋」が、「鋭い毛先」につつかれることで聞いてくる。
の、どちらかになると思います。
それを踏まえて歌を再鑑賞しますと、「次はいつ失恋するのと聞くように」に続けて「鋭い毛先が」と来ますので、①の解法が選択されたのかなと思います。
ところが結句は「つつく首筋」と、上句を「首筋」の方で受けてしまっているのです。「首筋をつつく」ならわかるのですが、字余りになりますので、避けてしまったのかもしれませんね。
このあたりは、せっかくの詩情を身体感覚に落とし込む作業なのですから、精度をあげていったほうがいいとは思います。この歌に最小限の推敲をほどこすとすれば、おそらく解法①が選択されるものと推察しますが、私はあえて②に振り切ってもいいかなとも思うのです。どこまでいっても、髪と首が触れたとき、それを「感じる側」は、首筋側だと考えるからです。
ご利用ありがとうございました。
この歌のいいところは、「抱き合って見えてないとき」は、主体の裁量であって、顔を見に行くこと自体はできるんじゃない? と、まず読者としてツッコめるところだと思います。でもそんなことをしたら、相手の顔は変わってしまうかもしれない。そこに考えが至ったときに、歌のいう「しめしめ」が、確かに確認は困難なんだろうなと実感できる。主体が適当なことを言っているように見えて、あながち適当すぎることもない、そういう距離感で歌と対峙できると、なんだか安心します。
ここでの「しめしめ」に含まれる、相手の感情はなんなのだろうということを思います。最初に素直に想起したのは、やはり主体としては喜びがあるだろうということを前提に、「こいつ騙されているな」という感情でした。
ここが作者の意図と外れていたら申し訳ないのですが、私の読み方が奇妙すぎるということはないように感じます。
この読みにしたがったときに感じたのは、心のセーフティネットのような、最悪のシナリオを回避する心理です。主体は相手に好意を持っていると思いますが、主体自身も、相手が自分に好意を持っているとは思えていないのでしょう。ただ、抱き合えているわけですし、そういう「気がない」素振りはわからない。
だからこそ、本当に「気がない」ことが分かってしまったときのダメージに備えて、「しめしめ」であってほしい、と思う感じ。屈折した、消極的な愛情ですが、主体の情けない自己把握の鏡としても読むことができ、共感する要素は大きいと感じました。
韻律自体は、ちょっと気になるかもな、くらいです。下句はドライブ感のある句跨りですが、三句から四句にかけても「しめしめと/いうかおで~」という跨りがありますので、さすがに凸凹が強いかなあとは。なかなか推敲して整えるのが難しい部分とは思いますが、ご自身の韻律感覚に比してどう感じるか、一度ご検討いただいてもよいのではないでしょうか。
ご利用ありがとうございました。
今回は以上です。宣伝だけさせてください。
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