自選五十首評10 澪那本気子さん
いただいた自選五十首からその歌と人の評を書こうと頑張るコーナーの第十弾になる。もう十回?すごいな。ほんとに文章書くのがきらいで、でも文章って書かないと書けるようにならないから、こうしてやらなきゃいけない状況に追い詰めてるんですが、いつもご協力ありがとうございます。あ、考えるのはすごく好き。書くのがすごく苦手。
今回とりあげるのは澪那本気子さん。今まで取り上げる中で一番、ご本人を僕がよく知っている方だ。回文を作りまくっていたころからの交流がある人になる。なにげに年に一回くらいはお会いしてお世話になっている気もする。
澪那さんはウェブサイト「うたの日」によく短歌を投稿されていて、今回の五十首もそこで惜しくも首席にはならなかった歌から厳選されたそうだ。「うたの日」はわかりやすすぎる歌が首席になることもあるし、惜しい歌といっても短歌的に良く刺さるものであることは多いから、面白い判断だと思う。
さてさっそく評に入っていくんだけど、澪那さんは「これでもか」ってくらい、自分のことを詠うひとだ。もちろん虚構もあるんだけど、そのときは虚構って言っちゃえるひと。そして、ちゃんと自分の中でベースがあるから、ほぼいかなる時でも自解ができるひと。そのまっすぐさは知っていたが、五十首ならぶと「やっぱりそうだよねー」という感慨になった。
東京に染まるつもりはなかったが鼻毛の伸びが異様に早い
孤独死の影と生きてる人たちと一緒に回る霊園ツアー
もう、それ書いちゃう?って感じ。主体として、(虚構であれ自分のことであれ)主体をさらけ出すことに躊躇がない。東京の歌、東京に染まるって確かに空気の汚いところに染まるってことでもあるけど、鼻毛の話しちゃいますかってところとそれもまた東京だよねって面白さが同居している。
霊園ツアーの歌も、「孤独死の影と生きてる」っていう、矛盾してるようで矛盾してない表現の面白さを取り入れつつ、でも霊園ツアーなんだなってくすっとさせてくるんだけど、歌の本質は主体も孤独死の影と生きてるくくりに入ってるってことで、都会の独り暮らしの不安や苦労が描かれている。
でもそれらは全部、つらい苦しいのネガティブな感情の押し付けではなくて、それでもなんとかやっていかないとなあ、という人間的な前向きさはあるんじゃないかな、という気がする。前向きさ、というか、気迫。なんか、やるってきめたらやっちゃう感じの精神性だ。
相づちを「はい」から「うん」へ変えてみる一ミリ君に近づきたくて
そんな澪那さんは相聞歌もまっすぐで芯がある。たぶん、永遠の片思いがあって、もうそのことをひたすらに語る。歌で。引いたのはちょっとマイルドなやつ。些細な変化だし、それを「一ミリ」と自分で規定してしまっているのも、主体の受け身な感じが出ている。ごりごり系だと、相槌を変えただけで大きな前進ととるかもしれない。とはいえ、澪那さんの主体の執念は、けっこうやばい。
私にはないきらめきを持っている人とはデートするのでしょうね
そりゃそうだろうよ。ということをちょっと恨みがましく言っちゃったりする。歌の中で主体は「自分が外見的にだめ」ということを繰り返し語る。なので、こういうことを受け入れているはずなんだけど、それでも心から納得はできない、よな。でもそりゃそうでしょうよ。
一度だけ君の喉仏の骨を拾える人と入れ替わりたい
やばすぎるでしょ。送られた五十首のなかで一番好きだった。入れ替わるタイミングは書いてないのがミソ。でもそりゃ、拾える時に入れ替わるんだろうけどね。でも書いてるのは、そういう人と入れ替わりたい。そういう人がいるから。この、叶わない恋と知り切ってからの願い、執念、これはさきの生活詠にも通じる、芯の強さでもあるとおもう。
自己処理のワキに自信は持てないし自由の女神なんてなれない
主体自身、主体のこころ、そういったものの開示を全くいとわない澪那さんの歌は、澪那さんと同じく女性たる主体のけっこうきわどいところもしっかりと書く。自由の女神ってたしかに腕上げてたよな。でも服着てたからワキは見えずに済むんじゃないかな。というか、ワキさえちゃんとしてたら自由の女神になれるのかな。一首だけ読んだらそうともとれるんだけど、そういうことじゃないんだろうなと思うのは、これが五十首あるからだ。
歌としては「自」の連発が暗に自意識をしめしているんだなと思う。主体は自己を卑下するけれど、それでもプライドはあるし、自意識もある。それは歌から見えてくる。「そりゃ私はこんなんだけど、それでも」がある。その「それでも」が迫ってくるのが、澪那さんの歌の気迫なんだろう。
使命などないかもしれぬ子宮でも誕生月に検診へゆく
スカートを摘まんで上る階段で王子さまとはまだ出逢えない
女性性を扱った歌で行くと、こういうのも目にとまった。子宮を「使命」づけている、「王子様と出逢う」価値観というのは、決して新しいものではないと思う。むしろ、言及は難しいがとりあえず「多様化」している価値観からすれば脱構築される側でありそうなもの。僕はでも、こういうものをこういうものとして歌にしつづけることも、重要だと思う。
そしてやっぱり主体は「検診へゆく」し、「スカートを摘まんで上る」のだ。それはある種の自己肯定でもあるし、生き方のポリシーでもある。
書いていてポリシーという言葉にしっくりきた。澪那さんの主体は、ポリシーがある。それは勤勉に、真面目に、素直に生きること。自分に正直であること。そういうものなんじゃないかな、と思う。それはときに強い気迫となって(相聞歌なんてとくにそうだ)読み手に襲い掛かってくるけれど。
待つことは苦にならないしできるだけ実習生のレジへと並ぶ
一房の巨峰に負ける時給でも一皿ずつに込める魂
このへんがまさにそうかな、という印象だ。実習生のレジに並ぶのは、それが実習生の練習になるから。それは「善いこと」だ。ともすればこの歌は、その「善さ」を他者に押し付けているともとれる。けれど、主体にはおそらくそんな気はなくて、「私はこうする」というポリシーなんだと思う。
巨峰の歌も、ホテルかなにかのホールなんだと思う。高級スーツ店の店員は自社のスーツを着られない、なんて言い回しは有名だけど、それに似た仕事のワンシーン。ここに魂を込めるのは、会社から求められていることではあるし、ちょっと馬鹿らしくなることでもある。それでもちゃんとやる、というのがポリシー。まっすぐなポリシーだ。
どちらかといえば明るい歌を引っ張ってきたので、五十首全体のトーンはもうちょっと重苦しい雰囲気であることは付記しておきたい。そのうえで、繰り返しにはなるかもしれないけれど、澪那さんの歌の主体は、己が道を迷わず進んでいる。ゆずれないものが、かなりある。そういう印象を全体的にうけた。
現実の澪那さんの話をここでしてしまうのは、プライバシーの問題もあるし、歌とは本来は分けるべきなのだろうけれど、ひとつだけ思うことを言うとするならば、そういう「ゆずれなさ」からくる「真摯な生き方」をされている人だと常々思ってもいるし、まあ、大体歌を読んだら「ほんとにそうだったんだろうな」と僕は思ったりしています。
ゆるキャラと思ってくれてよいのです抱き心地なら保証しますよ
だから、気迫がすごいんだって。「よいのです」がもはや、ゆるくない。強い。
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