近江瞬 歌集『飛び散れ、水たち』が言い逃してしまったもの

何度でも夏は眩しい僕たちのすべてが書き出しの一行目

から始まる近江瞬氏の歌集『飛び散れ、水たち』を読んだ。解説の山田航氏が「彼にとって抒情はつねに「点」であり、「線」にはならない。」と評しているように、詩になる瞬間を、とにかく瞬間としてとらえたうえで見せてくれる歌集であったと思う。

これは近江氏の特性と言ってしまっていいほどに歌集のいたるところにちりばめられていて、つまりは「瞬間」を「集めている」ことになるんだけれど、その集め方に貪欲さのようなものが垣間見えるほどであった。

これらの歌は、瞬間をとらえて詩にすることにことごとく成功しているので、鑑賞者として唸らされ続けてしまった。いい歌だから。いいなあ、って思った。近江氏がつかんできたものを、近江氏が見せたいようにちゃんと見られているな、僕、と思った。

晩夏にブルーシートを掲げれば無数の光に変わりゆく傷
雨の降り始めた街にひらきだす傘の数だけあるスピンオフ
君の声思い出してるリスニングテストの問いと問いのあいだに

一応断っておくが、引用はすべて『飛び散れ、水たち』からだ。三つのパートからなる歌集で、比較的序盤の歌から持ってきたけれど、どれも絶大な鑑賞力をもたらしてくれる景が並ぶ。

これらの詩情は、歌集のテーマとして語られもする、青春とその終わりにからめて展開されてゆくが、そのテーマの特殊性とは別のところで、「言えている」感じがする。仮に歌集のテーマがまったく違うものであったとしても、近江氏の歌の基本姿勢は、そういう観察眼と言語化で、詩情を「言って提示しきる」ことなんじゃないのかな、と感じた。

それはそれでパワーのあって圧倒されることなんだけど、それが続きすぎると読んでいて疲れてしまうこともある。この歌集が僕にとってどうだったかというと、そうはならなかった。

というのも、「言えている」歌が並ぶところどころで、どこか、「言い逃したところがある」と感じた歌があって、そこにたびたび心惹かれたからだ。

これは、歌の落ち度という話じゃなくて、主体が示している景を、そのまま読者として受け取ることはできない、主体が持ったままのポエジーがあるぞ、と思ったということである。

だから、当然にいい歌が多い歌集ではあるのだけれど、ちょっとそれとは別にしゃべりたくなるような、好きな「言い逃してる」歌を中心に書いていけたらなあ、と思っている。

ベランダで黒板消しを叩いてる君が風にも色を付けつつ

風「にも」なんだなー、と思う。黒板消しを掃除するために叩けば色のついた粉が舞うから、風に色が付くという切り取り方はすごくわかる。それは近江氏の得意技である瞬間の見せ方そのものだ。

けれど、そりゃ、こういうときにまず色がつくのは「風」なんじゃないかって気もしていて、歌の風「にも」という、風が順位的には二番手以降なのに立ち止まる。黒板消しをバシバシやってるわけだから、そのやってるものにも色は付くはずで、それは書かれない。

この、「書かれないほう」に残っている主体の気持ちはポエジーなんだけど、これは言いきれてなくて、僕の想像の余地にいてくれているな、って感じた。

歩行者を数えるバイトの青年が僕をぴったり一人とみなす

「ぴったり一人」の表現が、まだまだ主体の取り分で、読み手に言い切ってきていないなと感じた。なんか、そりゃそうでしょって思うから。歩行者を数えるバイトだからこそ、人を人数でしか見なくて、そこに「一人」以上のブレってないように思える。

歌の読みとしては、自分を独立した個人として認めてくれるのはこういうバイトくらいだ、という感情を拾っていけるのだけれど、「ぴったり」にある「過不足なし」の感じ。そこの表現で「いいんだ」ってする主体を理解しきることはできなくて、つまり想像はできて、それが僕の取り分だ。

愛想笑いだったと気付く口角をゆっくり元に戻していれば

「いれば」が、「いけば」だったら、特に立ち止まりはしなかったのかもしれない。「口角をゆっくり元に戻す」という行為は、いくら「ゆっくり」といえどもすぐの話で、戻して「いる」の現在進行形にたいして切り取るのか、と受け取った。

歌意としてはとてもよくわかり、口角を戻すしぐさの無意識さに、愛想笑いの無意識さが引っ張られて認識できるというのは歌としていいポイントだなと思いつつ、この「感じ方」は、みんながみんな同じではないんだろうなという予感がある。だからこそ、この主体になって想像することができる。この「感じ方」は、まぎれもなく主体の持ち物だから。

水風船の割れていくとき弾け飛ぶ記憶みたいにくしゃみするなよ

この歌に関しては結構明確に「?」で、でもその「?」が好きだ。水風船の割れていくときの感じと、くしゃみをつなげるのならわかるが、割れていくときに弾け飛ぶ記憶ってなんだろう。そんなものあるのかよ、となる。あるから、「みたいに」と、比喩の「前提」になっているわけだけど。

しかし「まあ、あるか~」なんて思うと途端に怖くなってくるわけだ。喩えもだし、そのくしゃみも。この「畏れ」みたいな感情は歌を読むことで拾ってくることができたわけだけど、どこまで言ってもそれは主体固有の感情で、それを想像するように読み手としては読んでいくしかないわけで、そういうのが好きだから、乗っかれる。

友達とケンカした日に握ってた鉄棒の錆のこげ茶のにおい

え、「こげ茶」まで言う? と、読者としてはなる。だって錆のにおいでしょう。せいぜい、「こげ茶の錆のにおい」ならわかるけど。この順番は、普通じゃあないと思う。けれど、ケンカした日に握った鉄棒の、握力、みたいなものはすごく想像できる。

この、「こげ茶」にまでにおいを感じるような書き方は、やっぱり主体が固有に「ケンカ」に対して負った感情から引っ張られていると思う。それは歌では書かれていなくて、こういう歌の作りってほかでも見られるんだろうとは思うんだけど、傾向的に読者に分かるように言い切ってくれる近江氏の歌に挟まると、それが近江氏側の取り分として、こちらは想像するしかなく、繰り返しになるが、想像ができるのである。

まだ割れることを知らない空中の瓶だよ僕らの今は例えば

これも、「例えば」まで言う? と感じた。だって、たとえなのは自明だから。じゃあ全くわかんないかといえばそうじゃなくて、「僕らの今は」までで言いたいことは終わっているわけだ。破滅の未来が待っている状況として、「僕らの今」がある、ということ。非常にシビアな提示である。それを、言ってしまってからの、「例えば」という、「付け足し」。

意味伝達という観点からすればまったく必要のない「例えば」だけれど、実際にリアルな相手にこれを言うことを思ったときの、付け足してしまいそうな「感じ」。当然に、歌にそんなことは書かれていないし、言い切られてはいないんだけど、その少しだけおどけた、中和しようとしてくる感じが読み取れる。そこには確かに、読み切れない主体がいてくれている。

ここからが二丁目ねって県境をまたぐくらいのよろこび方で

「二丁目」だから、「町境」なんだろうけど、それをすごくよろこんじゃう相手に対しての気持ちの比較級が、「県境をまたぐくらいの」なのだ。これって主体のものさしなのである。すなわち、主体も「県境」ならよろこんじゃうのだ。

この辺の感覚ってすごく人それぞれで、県境をまたごうが無感動な人もいるわけで、この「主体固有の物差し」を提示してくれたことが嬉しくなる。主体もそこだったらよろこぶよ、っていうのがある中での、町境だから、ね、っていう「関係性」が好きになる歌なのだ。

主体の物差しは明確にそうと書いてはいないし、言い切ってはいないんだけど、どこか言葉にならないものを掴ませてくれたような気分になる。

と、いろいろと引用をしてきたが、これらはすべて、三つあるパートの最初と真ん中に収録されている。最後のパートは、塔新人賞受賞作を含めた、よりプライベートな問題意識に基づいた歌が中心となっているので、もちろん主体の固有の感覚というのはあるんだけれど、歌としての詩情の伝達は、言い切りの形がほとんどだと思った。思ったし、そりゃそうなるだろうなと思った。

なお、僕はこの記事を通して、近江氏の言い切らない歌のほうが好きだ、といいたいわけじゃない。言い切る歌が目立つ歌集だ、は、いいたいことではないが、思っていることではあるので、いえるけれど。

じゃあなにがいいたいのよ、ってことになるけれど、言い切る歌が目立つ以上、ポイントポイントで読める、言い切らなさもあって、そういうところも読みどころだと思います、ということだ。

言い切るタイプのいい歌は、すぐれた絵画だと思っている。それは美術館に寄贈されているわけじゃないから、触れてはいけないとは書いてないんだけど、なんだか触れられない。圧倒的に鑑賞して、良さをかみしめるようなものだ。

それとは別に、言い切らない、なにか言い逃したものがあって、それに想像の余地がある歌というものは、「こうだ」という解釈はできない一方で、その絵画のほうから触りに来てくれるような感覚がある。

そういうものを行き来して読めたら歌集としてすごく楽しいし、僕個人の好みで行けば、半々くらいでもいいくらいなんだけど、とにかく両方があって読み進めていけたこと。これが嬉しかったから、こうやってひさびさにnoteを起動した次第だった。おわり。

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