自選五十首評① さちこさん
今年に入ってから、一首評をしっかりやっていこうという気持ちになりつつ、歌人評なるものにもチャレンジしていきたいなあ、でも中々ハードルが高いなあと感じていた時に、我ながらナイスなアイデアを思い付いた。
それは、送られてきた自選五十首からその人を評するというもの。五十なる数は結構なものだから、歌人評を十分できる分量だ。しかも、読むのもたった五十首でいいときた。これはかなりお得なシステムだ。
そう思って募ったところ、手を挙げてくださった方がいらしたので、時間をかけながら順々にやっていく。やり方としては、いただいた五十首のうち引用は十くらいにとどめつつ、歌の評もそれなりに、この五十を送ってくださったことから見えてくるものを書いていこうと思う。
一人目にとりあげるのは、さちこさんだ。Twitterを中心に短歌を発表されている方で、いい歌も多い人。一首評でこれと関係なくとりあげたこともあるくらいだ。それではさっそく、五十首を受けての歌人評を始めていこうと思う。引用している歌は、もちろん全てさちこさんの歌だ。
さちこさんの短歌の方向性を語るにおいて、ぼんやり四つくらいのファクタがあるのではないかなあ、と感じる。
①パロディ性
春の日に透かせばそりゃあ何だって春色になるよ ね、ハム太郎?
サバンナの象のうんこの心境で傍にいるから何でも言えよ
一つ目は有名な漫画アニメのハム太郎で、飼い主のロコちゃんが呼びかけるセリフを結句に急に挿入することで、それまでのやや気障でアンニュイな詩情をカオスに落とし込んでいる歌。二つ目は穂村弘の短歌「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」の本歌取りで、本来なら叫ばれるネガティブな感情を受け止めに行っている。
こういったパロディは、モチーフを借りてくるというよりは、言葉選びだけでパロディが成立するようなものの傾向があると感じる。同時に、パロディすることで借りてくるものを、異物として歌の中に衝突させておもしろさやよさを表現しているな、と感じる。
②孤独の提示
ぶらんこに立って乗ること愛なんてなくてもやっていけていること
エロゲするさびしき人の足許にしずかに点る電気ストーブ
歌の主体をリア充/非リアで分けることに意味があるのかはさておき、後者に分類される歌も散見される。ぶらんこの歌は主体自身の感慨だろう。結句が「いけている」としっかり現在進行形になっていることが、主体の今をうきぼりにして、ぶらんこにも波及している。決して強くはないが、決意のある孤独だ。エロゲの歌は第三者を詠んでいるようにとれるが、「さびしき」と明言してしまうことで、エロゲをしつつさびしくない人を暗に示しながら排除して、電気ストーブのあたたかさをより無機質に、しかし優しいまなざしで描写している。
孤独を示す歌はさちこさんに限らずとても多いが、この視点がぶれていないなと思う。それは悪くとらえれば主体の幅をせばめているともいえるが、こういった孤独に対して誠実であるともいえる。さちこさんの歌は虚構色が強いものも多いけれど、このスタンスがぶれていないことで、なんとなくリアルな作中主体を感じることはある。
③呼びかけ
だいじょうぶお前は雨じゃないんだよだから安心して落ちてこい
けどやっぱおれら大人になっちゃってよかったんだよ。梅酒うまいし。
特定の人、とは思えないのだが、誰かに呼びかけている歌も多いなと感じる。この呼びかけは本当に誰にでもあてはまって、「あなた」ではない感じだ。お前は雨じゃない、と呼びかけるのは、なんとなく(比喩として)飛び降りたいメンタルを持っている人。大人になっちゃってよかったんだよ、と呼びかけるのは、よくわからないままに社会人になってしまった人。
属性に向けて呼びかけているな、というのは感じるが、その属性がどうも、さちこさんの歌の主体にもあてはまるのではないか、と読んでいて思うことがある。すなわちこの呼びかけは、自己言及も含んでいるのではないかと推察する。そうするとどうも、②で挙げた心持ちとも相性が良いように思う。
④肯定的なときの虚構感
ベランダに大っきなイリエワニがいていますぐきみに会えなきゃ困る
パインアメ越しでいいから5秒間瞳を閉じてキスしてくれよ
さんざん孤独だのなんだのレッテルを貼ってしまってきたが、もちろん相聞感情の歌も存在する。掲出の二首はどちらも、特定の「きみ」に向けられていると読むことがたやすい。しかしどちらも、空想的な要素が大きい。
きみに会いたい、という感情を根拠づけるものは、ベランダにいるイリエワニだ。そんなもの実際にはなかなかいない。キスしたい、という感情を補強するものは、パインアメ越しでいいから、という謎の妥協だ。そこには純愛ではないような、おもしろが介在してしまっているように思える。そこがおもしろいし、そういうぶっとんだ景を提示してから相聞感情にもっていく技で、逆にハッとさせられるつくりにもなっているし、とてもいい歌だと感じるのだけれど、やっぱり空想的な点は否めない。
以上四点を踏まえて考えていくと、さちこさんの歌の主体は、照れているのかな、と感じる。
さちこさんの歌には、あまりネガティブな感情を他者にぶつけない。むしろ、肯定的だったり、応援していたり、すなおな好意があったりする。けれど、それを修飾するのが①で述べたパロディ性といういわば「他人の言葉」だったり、④の空想的なものだったり、③でふれたように呼びかけの対象がある程度一般化されたりと、特定の誰かにストレートに感情をぶつける歌は少ないように思う。
これは自分が歌作するときも似たようなことを感じていて、つまりはちょっと照れ臭かったりするのだ。だからレトリックに逃げてみたりするのだけど、いや逃げではなくてそれこそが歌のよさだろうと思ったりするのだけれど、そういう空気感をさちこさんの歌からは感じる。「梅酒うまいし。」も照れ隠しのレトリックだろう。そんな、本心のフィルタリング、それは②で示した孤独の提示から見える主体の立ち位置にも紐づけられるように思う。
繰り返しになるが、そういうスタンスでシニカルかつレトリカルに繰り出されるのは、どちらかといえば孤独の享受だったり世界の肯定だったりするわけだ。
マネキンの右手はどこかさびしげで握ってあげるにはちょうどいい
町はもう魔法少女の夢のなか大人のいない戦争がある
この二首についてあれこれ述べるのはやめておくけれど、僕のこの文脈に沿って引用した時に、いっそういい歌だなあと感じる二首だから引いてきた。
歌人評というのはある種のラベリングにつながってしまい、怖いものもあるけれど、全くそうしないわけにもいかない。こういった形で書いてみたが、どうだろう。僕のやり方はこうだなという自信はありつつ、読まれた方の評価も気になるところだ。まだ送ってくださった方はいるので、ゆっくり続きます。
最後に送っていただいた歌のなかで、僕が最も好きだったものを引用して結ぼうと思う。さちこさん、ご協力ありがとうございました。
文明がほろんだあとで吉祥寺あたりで猫として暮らしたい
まさに、空想のはめ込みと孤独の享受を昇華した秀歌だろう。
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