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コンプソンズ#13「ビッグ虚無」@下北沢駅前劇場

<公演期間・観劇回>
 2024/10/16-20(全8公演)
  うち10/18ソワレ、10/19ソワレの2公演観劇

<一言感想>
 弱者男性、公務員、SNS依存など、とても自分の話だった。
 最後は地獄なのか?たしかに、虚無感は大きくて、救いもないかもしれない。それでも、人や出来事に向き合い、話を聞いて、考えて、話して、考えて、を繰り返して、積み重ねていくしかない。

<観劇のきっかけ>

 安川まりさん出演ということで、早々に予約。
コンプソンズ作品は、#10「われらの狂気を生き延びる道を教えてください」(2022/11/20)以来2作品目。

<ストーリー>
※台本購入済、11/2から配信中 https://t.co/fbHPdZ7dv9
 男女2人(靖男、ミロ)、夜中に携帯を見ている。自分の話が記録されているとか、誰かに聞かれているとか、呼応するようなモノローグ。
 明けて、ハプニングバー。男性客・友達3人組(靖男、ケンジ、コウ)、女性客3人(ミロ、自称作家・のみ子、主婦・リエ)。「童貞キャラ」を称する元自衛隊員の芸人・靖男は、女性達にうまく声をかけられない。
 すると突然SFのような音が。プレイルームにいたはずのミロの夫(宮内庁職員)とその浮気相手が消えていた。これが、2021年に起きた「奇跡」。
 舞台は3年後の2024年。ミロが奇跡の検証をしたいと、当時いた客達とマスターを集める。彼らは奇跡が本当かなどについて、などあれやこれやと話していると、ミロの夫の浮気相手(富江)が現れる。ミロは富江を問い詰め、ナイフで刺すが死なない。さらに、死んだかと思われていたリエと靖男も現れ、バーは外に出られない迷宮と化し、洪水に飲み込まれる。
 明けると、靖男とミロが船に乗っている。実は昔、ミロは靖男の家庭教師で、靖男はミロに恋心を抱いていたが、ミロは、靖男の父親と不倫関係にあったことを告げる。2人で生きていこうと提案する靖男だったが、拒絶するミロ。ナイフを突きつけあう2人。そして周りには、他の人物たちの地獄絵図が広がるのだった。

<感想・考察>
1.総論
(1)SNS空間の比喩
 これは様々な劇評・ポスト等で指摘されていることであるが、本作は、SNS(主にX・旧Twitter)の空間をハプニングバーに見立てて描いていると思われる。互いに言葉尻りを捉えて嚙み合わない会話であったり、ネットミーム(堀江貴文氏の「野菜は美味しいから食べるの」など)の多用や、右翼・左翼・天皇・アメリカ・フェミニズム、陰謀論、弱者男性といった政治・思想に関わるワード。また、本名や、昼間何しているか普通言わないといったお約束もSNS。そして、作家と偽って実は警察官だったり、一睡もしないと言い張るYouTuberがいたりするのも、SNSに近い。
 このような特徴から、本作の特に前半では、最も素直にかつ表層を捉えると、ネットミーム大喜利が繰り広げられているコメディのように見える。ただ、個人的には、冒頭の靖男とミロのモノローグを観ているので、手放しで笑えない予感がしつつ、観進めていた。

(2)具象・実体から抽象・混沌へ
  序盤の2021年パートは、現実のハプニングバーという場所で起こっていること、具象的な実体を描いている。ところが、「奇跡」が起き、2024年へと移ると、だんだん実体世界なのか、想像の世界なのか分からなくなっていく。それは、「場」への疑いのみならず、台詞の内容にも表れており、靖男が電車で中年男を刺した話、ミロは夫を殺したのか、富江は誰なのか、真偽不明になっていき、最後の地獄絵図、抽象的かつ混沌とした世界に至る。まさに、「ビッグ虚無」である。なお、2021年は、コロナ禍真っ只中であり、東京オリンピックのあった年、2024年はウィズ(アフター)コロナの時代である。

2. 各論

(1)大きな物語の喪失
 本作を観て、「大きな物語」という言葉を思い出した。元はフランス人哲学者・ジャン=フランソワ・リオタールが『ポストモダンの条件』で提示した概念とのことだが、私が知ったのは、東浩紀さんの書籍(『動物化するポストモダン』など)だった。
 知見がないため多分に誤った理解をしている可能性があるが、20世紀は、例えば、多くの人々が、良い企業に就職して結婚して子どもを授かり、マイホームで暮らすことが幸せというような社会共通の価値観(大きな物語)を共有して生活していた。あるいは、そうした資本主義的な社会への反発・疑問から共産主義・社会主義のような価値観だったり、いずれにしても国民国家レベルで語られる「大きな物語」があった。しかし、高度経済成長の時代が終了し、今日より明日が豊かになるという明確な希望が持てなくなり、加えて、誰もがインターネットにアクセスし、誰でも簡単に発信できるようになり、ニュースもエンタメも溢れ、選択肢が多様化した現代では、「大きな物語」が喪失し、大量の情報の蓄積(データベース)と、狭いコミュニティで共有される価値観(小さな物語)である、といったものである。
 本作では、まさに、大量の情報が蓄積されるSNS、数々のネットミーム、ごく一部の界隈の中で共有される「陰謀論」が出てくる。この動きは、コロナ禍でますます目立つようになった。それらは次々と現れ、瞬間的に楽しみ、納得するために刹那的に消費されていくが、一本の線(大きな物語)にはならず、大きな虚無感が残る。

(2)「思想」への抵抗感と「意味」の渇望
 この大きな物語の喪失について、本作では象徴的な発言がいくつかある。まず、1場の冒頭で、靖男がのみ子を口説く際、「何の思想もない、汚い欲望があるだけ」「フェミニズムの勉強をしている」と言う。現代の日常生活において、おそらく多くの場面で、「思想」という言葉は、「普通の人はそうは考えないのに、極端な主張をしている少数派の考え」というネガティブなニュアンスで用いられることが多いと思う。「フェミニズム」を「勉強」と言っているのも、「フェミニズム」は「思想」ではなくて、「社会規範として身につけている」だけなんですよ、とそういうニュアンスが感じられる。 
 そして、この「「思想がない」ことが「良い」とされる」状態は、ある意味で安定した現代社会において、社会に関して何らかの「思想」を持ち、発信するような人は「変わっている」「怖い」、思想なんか持たずに、皆で仲良くできれば平和であるという感覚で、そのように考えると、人々は、「大きな物語」を共有せずとも、よくなった「望んだ結果」のようにも思えてくる。
 しかし、そう単純ではない。たしかに、「思想」や「大きな物語」には抵抗感があるのだが、一方で、「意味」や「心」を求めるのが人間のようだ。本作でも、「無意味な時間だった」「少なくとも意味の方が好き」、「私は心のない人間かもしれない」といった台詞が出てくる。「無意味」なものとして、本作でも多数の現実世界のネットミーム(堀江貴文氏の「野菜は美味しいから食べれるの」など)が出てくる。そして、「大きな物語」が消滅した中で、「意味」を望む人が辿り着く一つの先が、「陰謀論」なのではないかと思った。本作では、「ハプニングバーで起こった「奇跡」が「アメリカ軍による新兵器の実験だったのではないか」説」が登場するが、現実でも、科学的根拠に乏しい発信がSNSで拡散されている。陰謀論には色々なものがあるが、共通するのは、個別の少数の事例が大きな社会的背景・存在に起因するのだ、と結びつけるものである。世の中の様々な事象は、複雑に関係しているのが実際だと思うが、それを1対1の単純な構造にして結び付けるのが陰謀論、そうやって物事の「意味」を理解したい、理解したことにしたい、そして、原因だとした大きな存在に「怒り」を持つことで、「心」を取り戻したい、そのような心理だろうか、とミロの姿を見て思った。

(3)右翼・左翼?
 話を「大きな物語」に戻したい。「大きな物語」の一つとして、「イデオロギー」があると思う。本作でも、右翼・左翼、天皇、フェミニズムといった、イデオロギーに関わる具体的なワードもたくさん出てくる。ミロが、太平洋戦争の原爆投下について「アメリカってなんて恐ろしいことをしたんだろうって、そっちを考えますよ。そういう解像度で物事見ないでしょ左翼は」と言ったり、「駄目じゃん天皇制」というミロに対して、富江(ミロの夫)が「左翼か?」と発言したり出てくる。
 右翼・左翼ということば、保守・革新などと言われることもあるが、実際のところ何を意味するのかは、かなり人によって違う。(というより、自分と違う意見を持つ人を、「偏った意見」であると批判する際に、「右だ」「左だ」と言うように思う。)そして、特に日本において、特徴的なのが、本作でも出てきた、「アメリカ」と「天皇」の存在であると思う。
 大雑把なイメージで、「右翼」というと、天皇・皇室の伝統を大切にし、太平洋戦争に至る日本の動きを肯定し、現行憲法は押し付けであると考えつつ、日米同盟の強化を支持する人々をイメージすることが多いと思う。一方で「左翼」は、天皇制への疑問や、戦前日本の反省、護憲を掲げ、日米同盟に疑問を持つ人々をイメージする。
 しかし、ここには一見するとねじれがある。右翼について言えば、現行憲法がアメリカ(GHQ)による押し付けであり自主憲法制定が必要という考えを推し進めれば、日米同盟を支持できないのではということであり、左翼について言えば、護憲ということは天皇制やアメリカを受け入れたということでは、といったようなことである。これらは、第二次世界大戦の終戦、アメリカ(GHQ)による占領、その後の冷戦、という中で、憲法はアメリカの意向に沿ったものに改められたが、天皇制は維持され、戦力不保持とされたが、冷戦下で自衛隊が組織され、アメリカと軍事同盟を組む、という流れの中で、国家(日本・アメリカ)や天皇制が連続的な存在であるのに対し、その「実」については戦前と戦後で非連続的になっていることが影響している。
 加えて、現実の政治においては、「右」の政権が必ずしも「右」の施策をとるわけではなく、戦後、長期の保守政権が続いた日本が「最も成功した社会主義国」と言われたりして、こうなると、「右翼」「左翼」が何なのか分からなくなってくる。「虚無」である。
 さらに、冷戦が終結してからは、資本主義=アメリカ/社会主義=ソ連というわかりやすい対立構造がなくなり、また、太平洋戦争を経験した世代も少なくなり、天皇・皇族の被災地・スポーツの大会・外国をご訪問のニュースを目にし、福祉も少しずつ充実していく中で、「日米同盟・象徴天皇制に賛成、資本主義をベースに福祉も重要」という総論は賛成、各論での対立や程度問題の話となっていき、右と左と2つに分けることが、ますます難しくなってきた。
 そうした中で、今も「右翼」「左翼」という呼称が多用されるのがSNSである。上述のように、戦後日本において、もともとすっきりしなかった「右翼」「左翼」が、ますます何を指すのか混沌としている中で使用されるのは、分かりやすい「意味」を渇望しているからではないだろうか。

(4)弱者男性?
 本作で、靖男は「弱者男性」と呼ばれている。コウから、「金がなくて彼女もいない哀れな男。基本弱い立場の女子供を見下したいマインド」と言われている。一方、靖男本人も、「何で俺のこと好きになってくれる女、この世界にいないの神様?神様なんていねえか。赤ん坊うるせえけど無理やり笑顔を作る。俺が不幸なのは、「女性」のせいじゃない。そう言い聞かす」「何をどう学んでもありきたりな「女性蔑視」から抜け出せない「弱者男性」」と。フェミニズムを「学んで」いるし、子育てしやすい社会づくりは「思想」関係なく「正しい」ことであるから、嫌悪感など絶対に出せず、僻む気持ちを押し殺す。それが、母子に舌打ちするおっさんの登場で決壊するわけだが。
 こうした靖男には、自分自身を重ね合わせた。女性蔑視の自覚はないし、安定した収入はあるけれども、女性に縁がなく、家族連れやカップルを見て、「圧倒的正解で、自分にはたどり着かない光景だ」と思うし、周りが家庭を持つ世代になって、友人も少なくなるし、かといって「思想」は持ちたくないし、社会規範には乗っかりたいし。そういう中で、暇になって虚無感を抱き、靖男のようにタガが外れてしまう危険性をはらんでいると思う。ああ、自分だと思った。

(5)どうしたら「大いなる虚無」と戦えるのか
 物語の後半では、ハプニングバーを逃げ惑うも脱出できない、虚無感を抱いた者たち、そして彼らの前に現れ、問を投げ続けるリエと富江が描かれる。そして最後は刺しあう2人を中心とする地獄絵図へと至り、本作は、まさに「虚無地獄」を描いている、希望がない、とSNSで見かけた。そんな中で、どうしたら虚無から逃れられるか、希望は見い出せないのか、ということを考えた。
 鍵となるのは、エピローグで、「一人だけ脱出」し、叫んだのみ子の独白「作家のふりをした警察、をやめた、作家、志望、として、性格悪く、闇の奥を見据えて、書く。」だと思う。のみ子は、違法すれすれ・グレーゾーンのハプニングバーに傍観者として居続け、見逃しつつ、ただ客の録音に対しては「法的に問題」と指摘する、SNS上の「〇〇警察」的な存在にも思える。そのような安全な立場にいる傍観的存在をやめて、複雑で割り切れない現実社会と向き合い、時にはぶつかる覚悟を持つ、と決意したのだろう。このシーンは、劇作家・金子さんの決意でもあるように思う。
 社会から与えられる「大きな物語」を喪失し、「思想」は持たないけど「意味」は感じたい、でも、刹那的なミームや陰謀論に向かわず、社会的規範(〇〇ハラスメントの回避)は守って、と条件が多い中で「大いなる虚無」に立ち向かうには、不都合であっても目の前の現実をしっかりと見つめ、安易な正解を求めず、考え続けていくこと、目の前の相手の話を聞いて、考えて会話をすること、そうした「小さな物語」を積み重ねていくことにしかないのではないか。
 ラストシーンで、ナイフを突きつけあう靖男とのみ子も、あのシーンだけ見れば悲劇的結末に見えるけれども、散々虚無を見せつけられたところに、のみ子が「戦う」宣言をしたことを踏まえると、ようやく2人は、刹那的な会話を交わすハプニングバー(SNS)から、お互いを知り始め、現実的に向き合おうとする覚悟ができた画のように見えた。それは辛くて地獄かもしれないけど、虚無よりはマシではないか、と私には希望に思えた。
 自分自身に引き付けて考えると、たしかに仕事(公務員)は、1・2年で異動するからいつでも希望する分野の仕事ができるわけはなく、また、組織の一員としてできることは限られているし、仕事の成果も実感しづらく、虚無感を抱いてしまいそうになることもある。それでも、(非効率な業務は改善すべきだが、)一つ一つの調整や作業があって、施策が立案・実施されていくし、自分の経験の蓄積にもなっていくのだ、と焦らずに、積み重ねていくしかない。仕事以外のこともそうだ。孤独だけれども、観劇して、作家さんや役者さんと話したり、簡単なことではないけれど再び舞台に立てるようにワークショップいったり、吹奏楽やったり、そういう中で、真摯に向き合う。コミュニケーション含めて。そうやっていくうちに、気づいたら、刹那的でない経験や感情に出会えることがあれば、幸せなこと。
 なお、本作の作家挨拶で、金子さんが「褒められる度に「作った私はもっと浅ましく下品な人間だ」という思いが拭いがたくあり」、それが本作につながっているようなことを書かれていたが、これには、仕事以外の場で自分の職業を伝えた時に思うことに重ねてしまう。私は本当に何も成していないので、重ねるのもおこがまし過ぎるが。

(6)SNSと演劇
 本作で思ったもう一つのこと。SNSの言葉は、短時間で思いついた次の瞬間には発信され、にもかかわらず、プラットフォームがある限り、記録として残り続ける。一方で、演劇は、作家が苦悩して書いて、それを演出家と役者で1カ月とか稽古して作り上げた、と思ったら、本番1週間などで終了して、(配信等は別にして)消えてしまう。ここに対称性があり、そういう意味では演劇の方が刹那的であると思った。
 そして、こう思ったさらに後に、「いや待てよ、演劇もミーム的に消費されることもあれば、観た人に影響を与えることや心に残り続けるもあるよな」、逆にSNSで単なる思い付きの呟きでも、目に留まった誰かを励まして、転機となるかもしれないよなと。そう思うと、演劇、SNSといった媒体、表現方法の問題ではないし、発信者だけでの問題ではなくて、受け手がどうするかも問われているのだ。コミュニケーションの話だ、と思った。
 これ、観劇記録なかなか書けなかったことの言い訳になるが、観て数日して、「これってああだなあ」って思うことがよくあって。必ずしも観た直後に書くのが、観たその瞬間に思わせるのが素晴らしい作品、というわけではなくて、じわじわ広がったり、ふとした瞬間に思い出したり、フローじゃなくてストックとして観劇体験が人生を形成するのが、私には良いと思う。

(7)まとめ
 考えることがたくさんある作品で、なかなかまとまらず、気づけば観劇したから2週間経ってしまいました。。観劇時の自分を思い出すと、弱者男性としての靖男、「実」に意識が向いているのみ子に自分を重ねつつ見ていて、前半の靖男を中心とする台詞など、結構笑えずに聞いていたのですが、逆に最後に希望を見い出したりもして、何よりこの虚無感を「ある」ものとして作品にしてくれたのはありがたいことだと思いました。
 そして、先日の月刊「根本宗子」第19号『共闘者』で、「暇」や「孤独」が描かれていたのと、あわせて、本作もとても今の自分に重ねて観た作品で、同時代、というよりも同年代の作家さんであることも大きいのかな、とか思って、同じような思いを一部でも共有しているのかと思うと、嬉しかったりもしました。
 配信も購入したので、また思ったことがあれば、追記したいと思います。

 (グッズ購入)台本




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