エンドゲームを見て私が怒るワケ
表題の通りだから、まずエンドゲームを見て満足した、俺は楽しかったという諸君は腹を立てずにブラウザバックで帰ってくれ。
この記事は、そんな諸君らの楽しかった思い出を汚すためのものではない。
諸君はマジョリティである。
このコンテンツを楽しめたことを喜んで思い出にしまい、あんなところで喚いているやつらがいるぜと笑って忘れるぐらいで良い。
ここは薄暗い地下室、もしくは深夜の教会よろしく被害者の会、互助会の場だ。悲しみについて語り合うセラピーの場だ。
マイノリティーの苦しみを吐き出し、同じ苦しみを同志達で分け合い慰め合う湿っぽい場なんだ。今にも泣き出しそうな、怒りで握った拳に血管が浮かび上がった君にこそ、このパイプ椅子を差し出したい。
さぁ、座って。じゃあ私から話し始めていいかな?
私は映画を作る人々に敬意を評している
映画を作るのはとても大変な作業だ。恥ずかしながら、私も若い頃は映画好きが講じてなんとか映像業界で働けないものかとアルバイトとして入っていた時期もあった。
そこで見たのはクリエイティブでワンダフルでクールで素敵な世界5%と35%が人間と睨みあいながら、60%が機材と自分の腕に苦しみながら理不尽と戦う泥仕合であった。
役者が時間どおりに来ない、思った通りの動きをしてくれない、PCの不調、監督の無茶振り(一日で90カット撮影したいなどという不可能な要望など)、事務所NGからアップ画面の役者のシワを全て消せと言われる(別に若作りで売っている役者というわけではないのに!だ)
48時間延々と役者のシワを消し、肌の調子をAfter Effectsで整えている時(今はもっと簡単に短時間でできるが当時はマシンスペックも低かった)に私はこの仕事には向かないと思ってスッパリ諦めた。
もし何十年か前、自分が映像を作りたいなぁと漠然と思うようになった頃にタイムマシンで戻れるなら、まず伝えたいのは「体力作りをしろ!床や椅子で寝起きしてすぐ映像制作に向き合えるぐらいのバイタリティなきゃ自分の企画通せないぞ!通っても40代のうちに死ぬぞ!」だ。
つまりそういう世界なのだ。
そういう経験から、私は出来上がった映画を見る時、どれだけ退屈しても良い部分を見出したいと思うようになった。
映画というのは、ほとんどが一人の監督が作っているわけではなく、エンドロールの長さを見ればわかる通り、色んな人間が色んなしわ寄せを受けながら協力しあって作っている。
バラバラの意見をぶつかりあわせて、滅茶苦茶な条件からなんとか折衷案をひねり出し、必死に一つの作品として作り上げて体裁を整えて、最後まで観客が椅子に座って見ていられる作品につくりあげてくれるのだ。
だから、大抵の映画はどんな結果になろうと激怒することはない。
多少「なにこれ・・・・・ちょっと・・・・・・」となっても頭によぎるのだ
(役者か撮影スタッフのスケジュールの折り合いがつかなかったのか・・・・・・)
(そもそも撮影スケジュールの進行管理自体うまくできていなかったのかも?)
(機材トラブルで間に合わず、バストアップしか写せない状態だったのかもしれない)
(いや、予算が希望通りのものではなかったからレーンが借りれなかったとか)
(脚本チームと仲良くできなくてメタメタにされてしまったのかもしれない)
(そもそも当初の脚本通りでやろうとして役者や場所の環境が折り合わず、書き直してこんなことになった可能性も、お気の毒だがよくある)
(天候不全で撮影がうまくいかない間も俳優のスケジュールを抑えているから延長すればさらに予算が飛び、CGや編集が割を食らうから質が下がったりして大変だよね)
そうして最終的にはおおよそ「よく頑張ったで賞」で映画の感想を終える。どんな映画であれ、最後まで作ることに意義があるし、企画し、人を集め、制作し、最後流通に乗せるまでは凄く大変なのだ。それをやりきったことに常に敬意を評さなければならないと映画に楽しませて貰ってる側としては常々思っている。
普段の私はこう思っている
思っている私が、でも今回は違う、怒っている。
なぜ?
エンドゲームを見て私が怒るワケ
ヒーロー映画にもかかわらず特定のヒーローを侮蔑したから
一言でまとめるならこれである。
先に断っておくがエンドゲームはいい映画である。制作したスタッフには敬意を評したい。
一年という短期間、インフィニティ・ウォーで終わるはずだったのに延長した撮影の中で本来は一作の脚本だったのを2作目として成立するように書き直し、各所のスケジュールを調整し、撮影場所を確保、総勢3桁のキャラクターをキチンと総登場させ、MCU引退する俳優には花を持たせて、概ね納得できる退場をさせてくれた。
確かに感動の最終章である。前述のことがなければ、相変わらず脚本のプロット組が神がかっているなと関心して終えていただろう。
だが、そうはならなかった・・・・・・
そうはならなかったんだ、わかるだろ?君
【第一の怒り】キャプテン・アメリカ
映画の終盤に至るまで、彼に対して怒りは一度たりとも覚えなかった。
キャップは安定してキャップであり、常に前を向き、みんなを引き連れるリーダーであり、私は彼に関してだけは制作スタッフも愛しているから大丈夫なのだろうと安心しきっていた。
役者の引退は決まっていたから、原作コミック通りに行くなら何らかの理由で血清が中和されて急激に加齢し、ファルコンに盾を譲るものの今後は司令官として働く流れになるのだろうなと思っていた。
むしろ司令官キャップ役の老人俳優誰やろ、ちょっと楽しみだし、バッキーに昔のように待っていろって言われたりしちゃうのかななどと思っていたのだ。
映画を見ている間も、一切疑いもせず、過去に戻ることで血清が中和されるような事が起きるのだと思い続けていた。
しかし最後の最後で、その安心感はひっくり返され、私は受け身も取れずに顔面から地面に叩きつけられたような衝撃と痛みに只々呆然として泣き出しそうになった。
キャップが、誰にも、バッキーにすら相談もせず過去に戻り、そのまま歳老いてキャプテン・アメリカを引退したのである。
自分の人生を謳歌するために。
私がエンドゲーム内の時間軸の理解を間違っていないのであれば最悪にして最悪の選択である。
エンドゲームでは世界は分岐しない。
つまり、キャップが老人になり結婚指輪をつけて現れるまでの間に
バッキーが洗脳されて苦しみ
トニー・スタークの両親は殺され
ありとあらゆる苦しみが、溢れてた自体を傍観者になって見過ごしてきたということになる。
見過ごさなかったのだとしたら、老キャップがいる地点の未来は変わっており、バッキーはこの場にはいない。もしくはまったく違う感慨に至っていただろう、そういう描写があったはずだ。
スタークの両親ももっと年老いた姿の写真に切り替わるなどね。だが一切なかった。
人によってはいや、マルチバースの他の世界での出来事でこことは関係ないという人もいるけど
【5/1追記分】
これがエンシェント・ワンのいう分岐世界のことで
最後にキャップが戻ってきた世界とは全く別の展開をした世界で、みんなをキャップが救って過ごして帰ってきたとしても
【追記分ここまで】
だとしたらキャプテンは別の世界の自分の恋人を、どこかで眠り、最後に会えず後悔する自分を無視して幸せになり、その世界での幸せを味わい尽くして、その世界をまるごと打ち捨てて現在のバースに戻ってきたことに・・・・・・
【5/1追記分】
別バースのスティーブは70年後に目覚めた時に、若い姿のまま自分の老人verが恋人と結婚して幸せに過ごして、活躍した後の世界を見せつけられてどう思ったのだろうか?
【追記分ここまで】
エージェント・カーター(スピンオフドラマ)を見ていたら、とてもじゃないがこんな酷いことを決断するスティーブをペギーが受け入れるとは思えない。
ペギー・カーターは確かにスティーブの帰りを待ってはいたが、同時に一人のエージェントとして国を守るために奮闘し、SEALDsを作り上げていた。トニー・スタークの父親であるハワード・スタークとは協力して敵を倒していたし、親しい友人だった。もちろん、行方不明になる前のバッキーとだって知らぬ仲ではない。
洗脳されたバッキーがハワードを殺すのを看過するような性格ではない。
エージェント・カーターでペギーがエージェントになると決意したシーンで、ペギーは兄からのセリフ「自分を偽るな。戦うために生まれてきたんだ」を受けて婚約していたにも関わらず指輪を置いてエージェントになるんですよ。
ペギーは普通の女の子らしく振る舞うのが自分ではないと思ったから軍に入ったし、そこでスティーブと出会っているのに?
そんな女性をスティーブが自分の幸せを得たいからという理由で戻ってきて、ダンスを一回踊って「戻らなきゃ」「誰かを助けるために?」「そうだ」「いってらっしゃい」という流れならまだしも、そのまま逗留して結婚して「幸せになりました」なんて二重の意味で冒涜すぎる。
そもそもキャプテン・アメリカのファーストでアースキンが語ったセリフからして
「血清は未完成だった。だが、もっと重要だったのは人間の方だ。血清は打たれた者の内面を増幅する。良い部分は最高になり、悪い部分は最悪になる。君を選んだのはこのためだ。生まれてからずっと強い男は、力に敬意を払わない。だが、弱い者は力の価値を知っている。それに、憐れみも」
スティーブは力の価値を知っているはずだった。自分の力に敬意を払っているはずだった。
彼は、スティーブ・ロジャースはただ良き人間であれば、それだけで良かったのだ。それだけなのに、自分の人生を歩むために他の誰かの弱さを無視するキャラクターに仕立て上げられてしまったのだ。
シビル・ウォーでは原作でキャップが、映画ではペギーがこう言ったのに
「我々は勝算や結果などに関係なく、自分の信念のためにこそ立ち上がらねばならない。そしてこの国は、それを第一の原理として建てられたのだ。群衆や新聞や、あるいは世界中から"そこをどけ"と言われたならば、真実の川の岸辺に生えた木の如くに立ち、世界に向けてこう言ってやれ"お前がどけ"」
キャップの信念の中には、歴史が変わってしまうとしても救いたい人々を救うというものは無かったのだろうか?
彼らの側に立ってやりたいと思った時「歴史が変わってしまうからだめ」という運命論にも近い、神様的決定に納得して無視できたのか?その程度の心だったのか?
バッキーとの過去のセリフを思い出しても泣ける
スティーブ「おまえはキャプテン・アメリカについて死地に行ってくれるか?」
バッキー「絶対にイヤだね!ケンカから絶対に逃げないブルックリンから来たバカ野郎がいる。俺がついていくのはそいつだ」
馬鹿野郎じゃなくなっちまった・・・・・・スティーブは、キャプテン・アメリカは「ただの人間になった」それも弱さを知る俺たちのスティーブ・ロジャースじゃない。
監督や大衆が望む「多数派の価値観を持ったマジョリティの一般人」に。
結婚して普通の家庭を持つことが最高だと感じる、世界の大多数を支配する人間側に無理やり引きずり降ろされたのだ。
現代ではスティーブは本当に幸せになれなかったのか?
姪のシャロン・カーターは何のために出てきたんだ?たとえポッと出であろうと、キスをしたのはスティーブが現代を前向きに生きていこうとするきっかけではなかったのか?原作ではキャップの恋人にもなる女だぞ?
ペギー・カーターの人生も、独身を貫きSEALDsの設立に尽力した人生さえも「結婚して幸せになりました」という一般的価値観で潰してしまった。
【5/2追記:コメントでも頂きましたが独身を貫きは私の勘違いでした、すみません!CAWS見直したらカーターは結婚してましたね。恐らくこれが過去に戻ったスティーブ?と思ったのですが、調べてたらエージェント・カーターで明かす予定ってプロデューサーが言ってたので本来はダニエル・スーザだったのかな・・・・・・ダニエル、とてもいい人だったのでちょっと悲しいです】
これをキャプテン・アメリカに対する侮辱でなくて何というのだろう?
クリス・エヴァンスの個人映画なら良かった、キャプテン・アメリカでなければ、体力の限界から引退するクリスのリアルな感情を吸い取って演技に活かした、まぁ悪くはない展開とラストだろう。
だが、これはキャプテン・アメリカの物語なのである。人々を守るために細い体に血清の実験を受け、70年凍結された後も、やはり国のため、正しい行いをする人々のために戦い続けた「ヒーロー」なのである。
ヒーローを殺すのに、終わらせるのに、幸せにするのに、その精神まで殺すなんてあまりにも酷すぎるのだ。
彼らが大事にしていたものを、踏みにじって「わかりやすさ」「大衆性」を優先したのだ。
たとえこの映画を見た大衆の99%が「よかった」「好きなラストだった」と言っても私は絶対に、このラストを好きだったとは言わない。絶対にだ。
むしろ自分の村を、故郷を焼け野原にされた子供のような感情で生涯、このラストを覚えることになるだろうと思う。
ここまでが第一だ。
5000字かけたが、これは序の口だ。まだ次がある。
【第二の怒り】バナー博士とハルク
エンドゲームでバナー博士が出て来た瞬間、私は混乱に陥った。
なぜかバナー博士とハルクが融合していたからである。
そりゃ元々一人の存在だったけど、穏やかなバナー博士のままハルクの姿で写真撮影を求められたら笑顔で応じていたのである。
あの・・・・・・ハルク1見た?アベンジャーズ1見た?あの真剣に悩むバナー博士のお話見ましたよね?
自分の中の感情を制御できなくて、ハルクのことを嫌っているのに、でもハルクも自分自身で、周りにも怒っているけど何より自己嫌悪で苦しんでいる。
そんな自己嫌悪、内在する怒りを表現したキャラであるハルクがあんな爽やかにセルフィー???
負けたのが悔しくてガンマ線を浴びてたらこうなりましたってそんなあーた・・・・・・
誰も傷つけたくなくて宇宙のはてに行ってたハルクは、惑星サカールでその強さを認められ、みんなに讃えられる生活が楽しかった。
だからもうバナーの自分なんていらない、ずっとハルクでいると言い出してしまったのをナターシャの穏やかな声が呼び戻したのもうお忘れ・・・・・・?
ラグナロクの橋で、バナーさんは暫く戻れなくなるかもしれないからハルクになりたくないけど、でも誰かのためになるならって飛び出してってハルクになったんですよ。
インフィニティ・ウォーの時から、ちょっとハルクの扱い嫌だったんですよ。サノスに負けたから怖いってバナーの中に閉じこもって戦いたくないって。
そんな状態、バナーさんが一番自分に対して自己嫌悪で怒りにとらわれる状況で、ますます抑えがたい程にハルク出てくる場面だというのに抑え込まれてしまって。
その時は「ハルクのパワーがでかすぎるから、脚本をうまく進行させるために致し方ないことかな・・・・・・」と自分を納得させましたけどエンドゲームで適当にバナーと融合させられたハルクを見た瞬間
「あっ違うわ・・・・・・この人達、意思の疎通を取りづらいハルクが扱いづらいから排除しただけだわ。もうバナーの博士の内在する自己嫌悪や怒りなんてどうでもいいんだ・・・・・・」
って一気に悲しくなりましたね。
しかもバナー博士はそれなりに繊細で慎重な人なんですよ、トニーみたいに思い切ったことできない、ちょっとウジっとしたところがあって、だからアベンジャーズ1でトニーと科学者同士打ち解けて協力する所は胸熱だったじゃないですか。
ハルクに変身すると圧倒的パワーで大胆不敵に活躍する対比が面白かったんですよ。
ところが、今回はスコットのタイムマシーンのシーンとか、おっちょこちょいキャラでスコットを大変な目に合わせちゃったりして・・・・・・悪びれる素振りもない。繊細さの欠片もなくなってしまってる。
エイジ・オブ・ウルトロンで先走るトニーに不安を漏らして慎重に行こうとしたバナー博士は???
こんなんただのマーク・ラファロじゃないですか???
いや、私はマーク・ラファロおじさん大好きですよ?
「エターナル・サンシャイン」とか「コラテラル」とかの頃からって、最近すぎるかなと思ったらもう15年前の作品になんだなビックリだよ!
けど、私が見に来たのはマーク・ラファロじゃなくてハルク!バナー博士!
マーク・ラファロは好きだけど、別にマーク・ラファロ見に来たわけじゃないんだ。
どうすんのコレからハルクは、あの冷めたバナー博士が「ちょっとハルクっぽい行動しないとね」って冷静に服を引き裂いて車をぶっ壊すシーンみたいなの続ける?
それこそ完全なるハルクの排除じゃないか・・・・・・ラグナロクで、ハルクの自分もバナーの自分も求められているって立ち返ったのどこいったんだよ。こんなのハルク「殺された」だけじゃないか。
喋れなかったら、意思疎通できなかったら、乱暴なら「要らない」ってことかよ・・・・・・
そうだよな大多数の人間にとってはそうだよね。観客の多くも
「ハルクってパワー強いだけで良くわからない奴だし、いない方がいいよな。パワーがあって頭が良いバナー博士がハルクのパワーを持ってればいいじゃないか」
そう思ったのだろうな・・・・・・
けど、ハルクのバナー博士の「うまく自分が制御できない」「自分が好きになれない」「でも前に進む」という姿に心打たれて、共感していた人間にとって、それは一般性によってハルクの「生きづらさ」ごと殺されたのと一緒だったんだよ。
最終的に今のバナー博士とハルクの融合体になっても、それは良いんだ。
けれど、そうなれるまでの過程をせめてハルク2で作ってくれるぐらいしても良かったんじゃないか?
それができなくても、youtubeでサブストーリー的なやつで流すとか部屋で自己反省しながらこうするしかないってガンマ線浴びようとする博士の演技をするだけでもいい。いやむしろマーク・ラファロが頑張らなくてもスクリプトを上げてくれるだけでもいい。そしたらまだ納得できるんだ俺たちは。
ただ「悔しかったからガンマ線浴びてこうなった」オシマイ。
そして私達の不器用なハルクは死にました。というのはあまりにも酷すぎる。
観客の99.9%がハルク分のなくなったバナー博士のことを好きだと言っても、私はいなくなったハルクのことが好きだと言い続けたいと思う。
【第三の怒り】マイティ・ソー
これはもう怒りがすぎて自分でも上手く書ける気がしない。
もし貴方が互助会の会場でパイプ椅子で私を囲ってる状態だとしたら、今私は手が震えて、過呼吸気味になり、手に持ってたコーヒーカップからビチャビチャに零して床に飲ませてるところだし、何なら耐えられず嗚咽を上げて泣き始めてる。
こんなの無理だ、耐えられない。俺たちのソーが何をしたっていうんだ。
そんな悲鳴を上げる私の肩に手をかけて、イッツオケーイリラ~ックスと言いながらハグしてもらってようやく落ち着いて話し始められる。
それぐらい酷かった。
正直、マイティ・ソー1、2の流れからエイジ・オブ・ウルトロン経由してエンドゲームに行ったら多少はガッカリしたかもしれないがここまで怒りに包まれ、泣いたりはしなかったかもしれない。
1、2の頃のソーは、確かにちょっと無責任な所もあるし、恋に生きてて、人の気持ちに鈍感で、周りのことを見えてなくて、力任せでスピリチュアルでって感じでお世辞にも好きなキャラクターナンバー1になれる男じゃなかった。
逆にロキの方が悪役とはいえ、リチャード三世のように魅力的で、心情の移ろいが読み取りやすくエンドゲームではほとんど出ていないにも関わらずグッズが売り切れる勢いの人気キャラ。
ところが、その評価が一転したのが3作目
「マイティ・ソー/ラグナロク(邦題はバトルロイヤル)」である。
ソーのハンマーが砕かれる、奴隷のように売られて犬のように首に電撃をつけられて闘技場に投げ込まれる、ハルクにめったうちにやられる。
こんな散々な目に合いながら、ソーは1ミリも諦めない。
圧倒的強さを誇る姉ヘラと戦い、アスガルドを、更にはヘラの悪意から世界を救うためにかっこ悪くても必死にヴァルキリーに頼み込み、ハルクを説得し、時には信用ならない弟と協力してでも国に戻ろうとした。
姉ヘラの圧倒的な力に目を潰されてもアスガルドの民を宇宙船に逃がすために必死で攻防し、最後は「お前はハンマーの神じゃないだろ」と父親に言われてムジョルニアがなくても自分は自分だという「雷神」としての覚醒した姿は最高にカッコよかった。
国を失わせても守るべきは民である、民こそがアスガルドの象徴だと理解して人々に新しい土地に向かおうと示すシーンは、彼が雷神であり、アスガルドの王であり、人々を導くヒーローだというのを強く私達に見せつけてくれました。
そしてソーというキャラクターを、ただ傲慢なだけじゃない、人並みの苦しみがありつつも人を思う気持ちがあり、他者のために自らを犠牲にしてでも努力し、戦うヒーローだと愛させてくれた。
ありがとうタイカ・ワイティティ監督
そして本当にいい加減にしろルッソ兄弟!!!!
エイジ・オブ・ウルトロンで地球から追い出した辺りとか、ナタリー・ポートマン(ジェーン)があんまでねぇな・・・・・・?とは思ってた。
インフィニティ・ウォーで秒でロキを殺したのは、まぁヨシとしよう。もう死ぬのは3度目だし、殺されても仕方ないぐらい殺してきたからねロキは。まぁまぁ良い死に方させてもらったと思うよ5分で処理されたにしてはね。
だけどオーディンが「武器はお前の力の象徴にすぎない」つってソーの強さは、本人の強さだっつってんのに、新しい武器作らせたときから???ってなってたんだよ本当に、実はラグナロクちゃんと見てないのか?って一瞬思ったんだけど
マジで見てなかったか、嫌いだったんだな?無かったことにしたんだな?
いや、ニダベリアに行く下りは良かったけどさ。わざわざ目を潰して眼帯することで、父親の民を愛する心も威厳も受け継いだと感じさせたソーに
ロケットのケツから出した義眼嵌めて元に戻した時も
えっ???何でそれする必要あるの?眼帯で良いじゃん、なんでわざわざ成長の象徴を引き剥がした?
とは思ったのも本当に今思えば、いかにルッソ監督がソーの成長を嫌っていたのかわかる象徴だったね。
武器を作るのに必死だったシーンは良かったし、グルートが心を動かされて柄を作ったシーンはちょっとウルッと来てよかったよ。新しい武器が、みんなとの新しい絆を作っていってこれから頑張るんだよな!そうだよな!
って思ったら、お前、おい、ビールの栓抜きに使いやがった。
ニダベリアのドワーフが、どんな思いで打ったと思ってんだソレ・・・・・・
しかも柄の部分はグルートの形見だぞ、ロケットどんな気持ちでそれ見てたんだよ。
サノスの首をいの一番に落としたのも何なんだよ。
弟が死んで、目の前で殺されて怒ってた?
言っとくがロキが死ぬのは3度目だ、いい加減にしろ、母親が死んだ時だって父親が死んだ時だってヘラによって大事なウォリアーズ・スリーの仲間たちが全滅した時だって、ソーは戦士の矜持を失ったりしなかった。
マレキスやヘラの時のソーを思い出して欲しい。大事な物を失った、失わされてもソーは戦う、そういう男なのだ。戦士なのだ。
凶悪強大な敵を倒そうとはしていても、殺意を向けてはいなかった。
ましてや民を守るために「オーディンの息子ロキ」として、戦士の矜持を持って死んだ弟の弔いに、激情で切り捨てるかよ。
弟にお前は変われるって思うとラグナロクで言ってたのは私の幻覚だったのか?なぜ言った本人が退化してるんだ。
ラグナロクを経験しなかったソーと経験したソーがチェンジリングしたのかと思うぐらい辻褄合わない精神行動。
そして出てきたビールっ腹
いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや
100歩譲ってアル中ならヴァルキリーで経験したから良いよ別に、アスガーディアン酒好きだしアル中なりやすいんだなって思うだけだから。
でも体型は意味わかんねーだろ、ヴァルキリーが一切体型変わらなかったのに何でソーだけデブになるんだよ????????あ????
マイティ・ソーっていうかソーっていうかクリヘムが嫌いなだけなんだろルッソ兄弟
あの筋肉美ボディ作るのに役者がどれだけ時間かけて努力して作ってんのか・・・・・・それを・・・・・・あんな・・・・・・てめぇっ興味本位でやらせるかよ・・・・・・原作にあったならまだしも、存在しもしねぇことやらせやがって
働かないで家に引きこもってるソーも意味わかんねぇ
ニューアスガルドはお世辞にも裕福には見えない、寂れた漁村で慎ましく暮らしている状態で、あの酒の代金は?ヴァルキリーが一人で働いてどうにかしてるわけでも無いだろうし、他の民もよこしてるんだろうね。
ケーブルテレビの料金も、電気代水道代、他の食事、ゲーム台、Wifiまでおそらく。
そんな状態に、ラグナロクを経験したソーがなるか?
なんでだよ、ふざけんなよ。
意外性を持たせたかったというのはわかるよ。今までのソーと正反対だもんな?
じゃあせめてギャグ枠にするのはよせよ。
家族が全員死んで、アルコール依存症になって鬱傾向の男を笑い者にするシーンを見せるのをよせ。
それをよりにもよって、ソーにさせるな。
させたとしても、最後にサノスを自分一人の力で一撃ぐらい食らわせて、のさせるぐらいさせろ。キャプテン・アメリカの添え物扱いにしてんじゃねぇ。
ルッソ兄弟、あんたは常々ソーをギャグ枠に使ってきて、我々もそれをまぁまぁスルーしてきたが、今回は無い。ありえない。
家族を失って精神的に参ってるやつをわざと肥えさせて醜い姿にした上に、大事なムジョルニアまでキャプテン・アメリカに使わせるなんて本当に怒りで血液が沸騰しそうだった。
なんで酒浸りになりながら、漁村で真面目に働くソーじゃダメだったんだよ。
「この寂れた村で、残ったアスガルドの民達で身を寄せ合って暮らしていかなきゃいけないんだ。夢を見させるな、ほっといてくれ」
って漁師みたいな格好して場末のバーで酒樽で酒飲むソーじゃダメだったのか?ここまでソーを最低にしなきゃいけなかったのか?
いいか、ソーは2000年ちかくアスガルドで暮らしてきて、星々で諍いがあれば飛び出していって戦い、治めてきたり、そういう生活してた人だぞ。
自分が星を壊して、民を責任もって地球につれてきたのに、貧しい環境で必死に働く民を無視して、その金で毎日酒のんでゲーム飲んで過ごすっていうのはラグナロクだけじゃなくてさかのぼって2000年分のソーを否定してることになるんだぞ。
一番最低最悪だと思ったのは、コーグがネトゲやってる最中にソーがネットの向こうの相手に罵声を浴びせるシーンだった。
これまでのソーの地球人に対するトンチンカンなセリフっていうのは、ソーが地球の常識をわかってなくて発生した行き違いが面白かったのである。
このソーは完璧に理解している状態で、相手を自分の力で脅迫したのだ。しかも少しも大事ではない、くだらない理由で。
ギャグのつもりか???全然笑えねえんだよ・・・・・・バカにしてるのか?バカにしてんだよな、そうだよな。そうとしか思えないよ。
この始まりの瞬間から映画の終わりまで、我々の好きになったソーは殺され続け、虐殺され、いたぶられ、最後は死体のようになるまでイメージをズタボロにされた。
それと同時にアルコール依存症になったり、鬱傾向で太ってしまった人間に対する誹謗中傷を一時間映画でヒーロー達の口から聞かされることになった。何の地獄だこれは。家族や関係者にアルコール依存症患者や鬱傾向の人がいたらどんな気持ちになるかわかっているのか?経験したことがある人間が見たら、どんな風になるか一ミリも考えなかったのか?
ルッソ兄弟、これが本当に面白くてギャグになると思ったのか?
家族全員を失って鬱傾向で酒浸りになった男がヒーローたちに罵られる姿を見るのが愉快だと思ったのか?
最高に不愉快だったよ。
ジェーンのこともそうだ。少なくとも2では王座を捨ててまで会いに行きたい人物だったのに、過去に戻った時は対峙すらできなかった。
ロケットに任せきりだったソーを見て、情けなさのあまり直視できなかった。
ジェーンはヒーローであるソーじゃなく、イケメンマッチョに恋してたとでも思ったのだろうか?いやもういい、そういうことにしよう。だから別れたんだな。それなら良かった2で母が命を賭けて守った女性だったけど、そんな女性だったんだ、なるほどね、ありがとうルッソ素敵なヒロインとの再開シーンをありがとう!
君のおかげで女から逃げ出して酒蔵に向かおうとするソーが見られたよ!
母上に泣きつくソーは感動的な場面に作ったつもりだったのだろうか?
ありのままの貴方が一番よ、大丈夫よソー。
でもそんなこと言って貰う必要、ソーにあったのだろうか?
ずっとありのままの自分だっただろ、マイティ・ソー1では傲慢過ぎるくらい自分勝手に生きて地球に落とされ、2ではやっぱりジェーンと過ごしたいから地球に戻り、ソーが自分らしくしてなかった瞬間なんて無かっただろう。
ソーは天衣無縫、自然体のままで王者であり、そこに欠けていた慈しみの心だとか謙虚さ、遠慮を得るための旅路がマイティ・ソー1で、さらに他者のために支える者になる成長の話が3のラグナロクだったのだ。
それが!なんと!突然!エンドゲームで全て白紙にされちゃったんだよなぁ・・・・・・
それで過去に戻って母上との会話3分で突然自分らしくなりました!高潔さ取り戻しました!って・・・・・・・
シナリオの辻褄合わせをするために無茶苦茶にされた操り人形にしか見えない。
ムジョルニアを呼び出して来た時、自分の高潔さが証明されて嬉しそうにするソーまでは、まぁ良かった。それを持ち帰ったのはちょっとお前・・・となったけど、いや別に返すからいいじゃんじゃねーんだよ。もし未来に持ち帰って壊したら過去変わっちまうから、置いてけ。
お前の強さの本質はハンマーじゃねぇって父上言っただろ!!!なかったことにすんなルッソ!!!!
高潔度メーターじゃねぇんだよハンマーは・・・・・・
いやもう持って帰っちゃったなら仕方ないけどさ・・・・・・持って帰ったハンマーをキャプテン・アメリカが使うシーン・・・・・・もムジョルニアってソーの象徴だったのに、なぜそんなことを・・・・・・と思ったけど、みんな高潔な魂を持つキャプテン・アメリカがハンマーを持ち上げる所見たかったし仕方ないよね・・・・・・という気持ちにもなった。
雷撃を使うのは????ってなったけど、雷撃はムジョルニアから出てたわけじゃないよね?あれはソーの雷神の力の触媒になってただけだよね?わけわかんねぇ・・・じゃあ過去のニダベリアいって次はキャップのためにハンマーでも作ってもらうか?あ?二人でサンダーストーム技でも出す?
更にはソーが「小さい方はやる」ってムジョルニアをキャップに投げるって・・・・・・それは今は亡き父上がソーのために魔法をかけたハンマー・・・・・・
グルートが決死に柄を作ってくれた斧といい、ソー1、2、3で敬意や感謝の気持ちを覚えてきたはずのソーが最低最悪の不敬者として描かれる姿を見せられるのは何の拷問なのか?
これが人間としてリアルになるソーだとでも言いたいのか?
酒浸りでロクでなしだった期間支えてもらったにも関わらず、ニューアスガルドの民に何も返さずにニューアスガルドをヴァルキリーに投げ出して旅立つソー。
やっと自由になれたんだよって感想も見かけるが、本当にマイティ・ソー2を見ていたのか?
あの頃からずっとソーは自由だったよ。たとえロキが化けてたにせよ、父親に自分が王に向いてないとはっきり表明して地球に行ってただろうが。
それでもラグナロクの時は、ヘラの脅威から国を守るために戻ってきただろうが。
王道っていうのは玉座に座って政治を見るから在るんじゃないんだよ・・・・・・民のためにどれだけ心を尽くせるかなんだよ。そういう意味でソーは既に王であったし、これからも民のために心砕くなら王なんだよ。
そして映画の画面をよく見てみろ、ニューアスガルドは王様の統治が必要なほど広大か?
あの貧しいコミュニティの人々に恩返しとして働いて返す程の気持ちもソーには無い、それが自由な人間の心だと言いたいのか?
まだ「この星は地球人の星だ。アスガルドの民がより自由に暮らせる土地を探しに行く」と旅立ってくれたなら、良かったよ。
たったこれだけのセリフ、今後の保証も何もいらないを言わせるだけで全然印象が変わるのに、なんで無責任なヒッピーのような男にソーをさせたがるルッソ兄弟!
そして極めつけばガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの船に載せた事。
あの最後の気まずい会話、すまないが笑えたか?一ミリも笑えない。スタロのあの気まずい顔と、上手く噛み合わないソーとの会話。
即席の船団でもしかしてガーディアンズ・オブ・ギャラクシー3が来るのか?ガモーラもいないのに?
ソーの目的は一体何なんだ?ただ自由気ままに宇宙をさまよって、家族を失って行く宛がなくて寄り集まったガーディアンズ・オブ・ギャラクシーのメンツの中に、家族たるアスガルドの民が地球にいるのに良くわかんない理由で捨てて出てきたソーが入っていくのか?
マイティ・ソー4を作りたくないからギャグ路線で売れてるGotGに混ぜ込んでセットで売る気なんだとしたら本当に本当に勘弁してくれ、どっちに対しても冒涜だからな!
タイカ!タイカ・ワイティティ、早く企画を提出して!!!マイティ・ソー4の企画!
ファンの嘆願書が必要なら指にタコができるまでサインするから、お願いだから早く頼む。君が必要なんだ!
はぁはぁはぁっ・・・・・・・
まだまだ語りたいことはある
本当はスタロとガモーラのことも語りたかった、ガモーラを生き返らせて満足したつもりかもしれないが、結局1・2でスタロと一緒に踊ったり助けに行ったり一緒に家族として過ごしたガモーラは二度と帰ってこない地獄。一緒の見た目なのに別人というツラミとか色々ある。
けど、もう辛すぎて息切れしてきたから勘弁して欲しい。
最後に言わせて欲しいのは
感情的になり罵倒を繰り返してしまって本当に申し訳ないがルッソ兄弟がアメコミ映画に現実の政治色を入れて、大人でも鑑賞に耐えうる良作映画としてマーベルの地位向上をしてくれたことには感謝している。
彼らが映画に加えたリアリティは、作品により一層の深みを持たせてくれた。
だが、勘違いしないで欲しいのは「リアル」であることが「良いこと」ではないのである。
リアリティは料理で言うところのスパイシーな調味料にすぎない。
最高にスパイシーな調味料をドバドバかけた料理は、誰が食べてもスパイシーな味で美味しい食べ物になるかもしれない。
けど入れ過ぎれば食材の味を殺す。題材の良さがボヤケてダメになるのだ。
エンドゲームを見ても、さほど悪いとは思わなかった人たちがいるのもそれはそうで、実際一般的なハリウッド映画の料理の仕方としては間違っていないからだ。
おおよそ、ハリウッド映画にあり得るエッセンス、良いと思われる要素の全てが詰め込まれている。エンドゲームはそういうバランスのとれた作品だ。
特に今回記述した三人のキャラクターに対して怒ったのは、長年他の監督や脚本家が個別の映画で丁寧に育ててきた素材を「大衆受け」というスパイスで滅茶苦茶な味付けで出してきたからだ。
本当にリアルというスパイスが大量に乗っていれば良かったのか?リアリティのあるキャラクターならアメコミ・ヒーローの「ヒーロー性」という素材は犠牲になっても良かったのだろうか?
最近、DCといいMARVELといいリアリティをヒーロー世界に持ち込もうとしすぎて、すぐに鬱展開にしようとしていると、個人的には感じてしまう。
ヒーローが勧善懲悪を行い、平和でハッピーな話を子供だましだとあざ笑うファンまでチラホラ目に入ってしまう。
でも、我々が愛したアメコミは、ヒーローはそんなに大衆が好きな「リアル」であらねばならないのだろうか?
私達は現実の辛さまで映画の中にずっと持ち込み、最後までそのまま飲み込まなければいけないのか?
現実の辛さから、少しでも心を救われるために、ヒーローを、偶像を、ハッピーエンドを求めて創作物を見に来たのではないのだろうか?
私はヒーロー達の中の人間性というリアリティには興味があったし、みたいと願ったが、ヒーローがそのヒーロー性を剥奪されて理不尽に人間に堕とされる所までは見たくなかったのだ。
きっとこんな長ったらしい愚痴を最後まで読んでくれた貴方も、少しはわかってくれるのではないかなと思う。
そして、みんなが絶賛しているのに自分だけどうしてこんなに割り切れないんだろうと思ったなら、その気持ちもまた間違いではないよ、と手をとって肩を叩くつもりで私はこの記事を書きました。
お互い辛かったですね。
過去の楽しかった作品を見て、暫く休憩しましょう・・・・・・
そうして暫くしたら6月には安心信頼のジョン・ワッツ監督のスパイダーマンシリーズ新作「ファーフロムホーム」が来るので、それで心の平安を取り戻しましょう。大丈夫、ピーターくんはいつも安定してピーターくん、最後まで街の素敵なヒーローでしたもんね・・・・・・
きっといつか、マルチバースの他の世界でまたリブートされるし、その時にこの汚名を着せられたヒーロー達がまっさら素敵に戻ることを信じて強く生きていきましょう
終わり
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?