人の目を見て話すって本能的にどうなの?
目は口ほどに物を言う。
「目の動きで心理がバレる」などというし、よく聞く。他者に本心や心理状態を読まれることはリスクが大きすぎる。建前や社交辞令は使うはずなのに、人と話すときは「目を見て」話せと教えられる。
私は目を見て話せない…わけではないが、人の目を見るのが本当に苦手で落ち着かない。
親しい仲であれば、ある程度は意識せずに済む。緊張してハラハラして、相手に自分がどう見られているか気になって落ち着かない状態・状況の最上級は面接。
面接はただでさえ緊張するし、受け答えやマナーなど色々気をつける上に、私の場合は「目を見る」ことにもリソースを割かなければいけない。
自分にとって、この常識は不都合この上ない。
目を見て話せば、熱意?情熱?真摯な姿勢?が伝わるの(というのが社会一般の考え方)だそう。
けれど、私はそれら以上に「圧」を感じてしまう。ずーっと目を見て(覗き込んで)話されると、相手にそのつもりがないのは理解しつつも威圧感を感じてしまう。逆に、目を見て話さざるを得ないときは「威圧感を与えてないだろうか」と常に心配している。
真面目に話を聴く姿勢は、相手の方を向いて目を見るのが正しいとされる。先生の話とか。高校の学年集会でしょっちゅうその話が出たのを未だに覚えてる。
「目が合ってない人は何してるの?」と先生が怒ることもあったが、「いや、話は聴いてるよ」と言い返してやりたくなること多々。
『話を真面目に聴く=話の内容をちゃんと理解する』と、そう思ってたけど、どうやら『話を真面目に聴く=真面目に聴いてるポーズをとる』ことが最重要視されている。内容理解はその次。
私はよく、いや度々「(ちゃんと聴いて理解してるのに、聴いてますポーズもとらないと“正しい”にはならないのかぁ…)」とため息をついた。
動物は威嚇するときに目を合わす。
クマと対峙したら「目を逸らさず、ゆっくり後ずさる」とも。あと、ペットの犬はよほど反抗的でない限り、飼い主が目を合わせようとすると逸らす。
目を合わせる行為が「威嚇」であることは動物的常識。相手との敵対を望まないなら、本能的に目は合わせないはず。
本心や心理を常時オープンな状態にはしないし、威圧を与える必要もない。それを、本心を包み隠さないとか、真剣さを訴えるとか、そういう美意識風に置き換えられてしまうと困ったもんだ。
人の目を見て話すのが苦手なのは、「心理状態が読まれそうに感じる」「威圧感を与えそう/与えられそうに感じる」から。防衛反応としてつい回避してしまうが、目を見ないのは真剣さに欠ける(らしい)し、無礼にあたる(らしい)。
「目を見て話す・聴く」をあまりにも意識すると、耐久勝負の世界に突入してしまう。先に逸らすのは相手が自分か、みたいな。電話切るのは自分か先方か、みたいな感覚にも近い。
仲良い友達と話すときとかは完全に気が抜けてるから、一度も目を合わせなかったことに後から気づいたりする。
「…そういえば今日顔見てないぞ」ってなったり。あまりにもそれがよくあるので、さすがに表情を記憶してないのは惜しいから“記念”のような形で意図的に目を見ていたりすることがある。
話してるときに目を見ず、鼻の辺りを見ていることもしばしばある。「一瞬だけ目を合わせて、すぐ逸らす」を繰り返していることもある。そうすると、威圧的な印象も与えないし、ちゃんとしてる感も出る。
と個人的には思ってる。
『人の目を見て話すって本能的にどうなの?』
に対する見解は、
「よっぽど勝ち気じゃない限り、本能的に目を合わせることは大体避けようとする。でも、常識的には目を合わせることが重んじられる」とします。
人間的常識と動物的本能の狭間で揺れ続けている。
そもそも、「目を見て話さないから」なんて理由でやる気の有無とか真剣さの度合いを決めることあるのか。現世の人事と、前世が人事の人だけじゃない?
とりあえず、テレパシストになる努力は怠らないようにしよう。