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過去の自分の文章を読むことは苦行か

過去に書いた文章(note、ツイート、日記、卒業文集など)を読むことに恥ずかしさや抵抗はあるだろうか。私はある。なぜ過去の自分が残した文章はこうも「痛く」感じるのか。自身の“過去作”に「痛み」を感じない人と感じる人の違いは一体なんなのか。

といったテーマで持論(あるいは空論)を展開したいと思う。先日のnoteでも、「過去の自分が書いた文章の小っ恥ずかしさ」について少しふれた。

『未提出台本と提出台本あれこれ』
https://note.com/longwood/n/nec39ba21dac5

ある日の私は極度のヒマに判断力を奪われて、自分の数年前のツイートをさかのぼって読んでいた。

恥ずかしく感じる文章とそうでない文章があった。どうやら一概に「過去の自分の文章」が恥ずかしいというわけではないそうだ。

では、どのラインを越えると“恥”になるのか。
私のツイートを例に挙げてみていきたい。

どうしちゃったんだよ。マジで。
「え?何?なんだって?」だわ。堅い詩じゃん。漢字を使って全部言い表わせると硬派でクールだと思ってた。のが文章から伝わってくるから痛い。

はい、次。

うん、なんか微妙だな。今もこんな感じのツイートしがちだからかな。「カチカチの表現を漂わせて、ちょっとくだけたことに言及してる」みたいな。ちょっと痛い。

次。

これはいいと思う。自画自賛で申し訳ないけど、普通に自分の中でおもしろいと思えるレベル。そういうツイートに限って、いいねが全然つかなかったりする。
なんであんなよくわからない硬派なポエムにいいね数負けてるんだ。

最後。

本当のことや本当に思ったことを、そのまま何もいじらずにツイートしてる。これはエピソード自体がおもしろいから今でもアリ。これは本当にセミが家に入ってきたと思った。

以上。

やっぱり納得できないのは、「よくわからん小難しい表現のポエム的ツイート」の方が反応がいい点ね。もしかして、みんな「めちゃめちゃ痛いなw」って感じて、痛さに滑稽さを見出しての“いいね”なの?

それはありそうだし、一番最悪なんだけど。

「過去の自分の文章」が恥ずかしいと感じる条件としては、
①当時の今とは違う考え方が反映されている。
②当時の感覚(スタイル)が反映されている。
③詩やポエム調の文章。
かな。かなり大まかだけど。

つまりは、「現在の自分と当時(文章を書いた時)の自分の考え方や感覚、書き方のスタイルにズレが生じている」と恥ずかしい思いをする。
今は“ウケ”たいスタイルで書いてるけど、過去は“イケ”になりたいスタイルで書いてると、「こいつスカしてんなぁ…」と白目を剥くしかない。

価値観や考え方の軸が定まってないとか、変動しやすい人はおそらく昨日一昨日ぐらいの文章を読んでも「うわぁ…」ってなるんじゃないかな。

あと、今の自分がおもしろいと思うものと過去の自分がおもしろいと思うものが変わっていると、過去の自分がはちゃめちゃにスベってる(ように感じる)時がある。一方でエピソード自体がおもしろい内容は、時間経過の影響を受けにくいので、「すべらない話」になる。

今後見返したら、現在にあたる文章がスベり散らかしてると感じるようになってたら怖いな。黒歴史を作成するターンはもうここでおわりになってほしい。

でも、他人の恥ずかしいと感じる過去ツイートはどんどん読みたい。

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