麻雀を知って未来の「孤立化」を憂う
一年ほど前に私は麻雀の遊び方を知った。
「大学生、徹夜で麻雀やりがち」という大学生あるあるが通用したのは一昔前の話。麻雀の存在は知ってるけど、ルールや遊び方は知らない人が多数を占めていて、なにやら「怖い」「危ない」「不健全」「おじさん」のような青少年健全育成事業団と完璧に対をなす印象を持っている人が体感的にも多い。
コンピューター対戦でいつでも練習できる。
しょうもないアガリでも気まずくない。
アプリで遊びはじめて、ルールや基本的な役を覚えて隙間の時間にツムツム感覚でやってるので、ド素人と呼べるかも怪しい。そろばんで言えば10級。でも今回は、麻雀を語るわけではない。
麻雀を通して感じた“未来”や“人間社会の展望”のようなものを空理空論として、書き留めたい。
最初に言った「大学生は徹夜麻雀やりがち」はもう昔の話というもの。これはつまり、他の娯楽や時間の潰し方が出てきて、それらが麻雀に覆い被さり、埋没させたということ。
今後もさらに新たな娯楽が生み出され、今の主流が“時代遅れ”として埋没していくのは明らか。
また、記事タイトルにある孤立化につながる最大の理由として、「人と人が直接会う必要がなくなってきた」が挙げられる。
ポケモンでさえも会わなくても通信できる。膝を突き合わせて、ポケモンを交換していた時代は過ぎ去った。すれ違い通信、なんて5年後の現代っ子には鼻で笑われてしまうだろう。
麻雀もスマホゲームで日本全国、いや、世界中の人と対戦できてしまう。大富豪やUNOといったカードゲームも同じように。ジェンガすらオンライン対戦できてしまう。もはや、人と人が顔を合わせずとも遊べるようになった。
雀荘という存在はご存知だろうか。低い雑居ビルの2・3階や、焼肉屋や飲み屋の並びによくあって、経年劣化した看板を掲げている。
大体は窓に字が貼り付けられてる。“麻雀”の字は赤色。カーテン閉め切りがち。換気扇がめちゃめちゃ汚いのも粋。
雀荘とは要するに、麻雀やる人が卓を囲んで麻雀する場所、である。お金を賭ける賭けないもある。
麻雀に全然興味なかった頃から雀荘の外観は好きで、中島みゆきの『時代』が頭の中で流れてくる。
ただ、私のような大学生が入ろうと思って入れる場所ではない。めちゃめちゃ麻雀の上手い大学生とかならまだしも、というか、自分が仮にめちゃめちゃ麻雀の上手い大学生だったとしても「よっしゃ、いっちょ行くかぁ」とはならん。
「おぅ、そこの若ぇの、悪りぃが、ここはケツの青いガキが来るとこじゃねぇんでい」とタバコをふかしたおじさんに言われそう。
そんな話ではない。
地元の雀荘も少し前になくなって、ネイルサロンになった。目に見えて「人と人が直接会う」場所が減って、人が集まって成立するものが、オンラインによる繋がりが代替として台頭し、成立しなくなってきつつあるということ。
もちろん、オンライン上での繋がりから実際に会う流れもあるだろう。通信対戦では物足りなくなって、実際に雀荘に足を運ぶこともあるだろう。
ただ、安直な考えをするなら、将来的には人と会う必要なく同じ体験と時間を共有できるようになるのではないか、と。
それを“孤立化”と呼ぶのは少し違うかもしれない。「会わずに済む」というのは、「会えなくてもできる」と同義なのかも。
テレビ電話も、会わずに済むというより、会えなくてもできる寄りのものだ。同じ意味でも少しニュアンスが違う。
その流れを汲むと、人と人が直接会う必要や機会や場所は、この先減っていく。仮にそれを孤立化としても、その孤立化を感じさせない(あるいは抑える)ようなものが生まれるはず。より進歩したVRとかホログラム技術とか。
麻雀という“共通言語”があるとして、雀荘がなくなることは「共通言語を使う場がなくなる」のでは必ずしもない。そういう話なのかも。
技術の進歩で人と会うことが減るのは、孤立化なのか、むしろその逆なのか。アプリで麻雀をミーハーに楽しみながら、今後を見据えたい。
ひとつ言えるのは、“会えなくても(仮想的に)会える”が、“会えるけど(仮想的に会えるから)会わない”に傾いた時、それは本当に寂しい未来の形になってしまう。会えるなら会った方がいい、会えないならそれを可能にするものを介して会った方がいい。会って無駄話をなるだけ多く、した方がいい。