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無題|フィリピン

これは、わたしのための文章

芸術は、世界を穏やかで温かいものにすると思っている
制作と鑑賞ということに限らず、自分と何かをつなげて考えられるようになるためのものとして捉えている
決して、高尚なものではなく、日々の暮らしに心を動かすこと、自分の気持ちと周囲の状況や関係を意識すること、自分の気持ちを大事にすることと同時に相手の気持ちを想像すること、生きていることや生かされていることへの感謝が生まれること、そのすべてだ。

アートには余白がある。だからこそ、相手を想像できるのかもしれない。
デザインには、よりよくなろうとする力がある。だから、前に進む力をくれるのかもしれない。

コミュニティとは人の集合体である以上、コミュニティを表現対象にするということは、当たり前のように、他者と向き合うプロセスが必要になる
他者と向き合うために自分とも向き合わなければならない
時には、自分のことも他者のことも分かり合えないことだってある
人に寄り添うという行為は選択しないとできないものだ
だから、人のそばにいるためには、自分が心をさらけ出す必要がある
自分の中にある似た感情や経験とつなげてはじめてできる行為なのだ
自分とつなげられないなら「今は言葉が見つからないけれど、話してくれてよかったよ、ありがとう」としか伝えられないものでもある

わたしはクリエイティブに関わる者として、愛が足りない世界でも愛していく強さを追い求めていたい。
愛をもって社会を彫刻できる人間でありたい
バカバカしいほど、そこに熱量をかけて、新たな視点で世の中に対峙したり、分からないことを分かろうとしたり、日常の風景をつくっていたい

だけど、この旅、わたしは表現から逃げた
逃げる選択をしたわけではなく、気づいたらそこに自分は居なくて、ただの入れものが動き、話していた

そんなことに後から気づくほど、わたしはまだ未熟で、弱く、幼い
そして、その自分を許せない
脆い姿見せ、誰かを求め、縋ることもできない
自分を守り、隠し、大人になろうと必死に生きてきた

相手と対峙した時に、自分がコントロールできなくなることにずっと怯えてばかりで、無意識に線を引き、感情を切ってしまった
結果、欲もなくなり、目の前に映る人たちを愛せなくなった

そして、人を愛せなくなった瞬間、わたし自身も輝きを失った
だから、わたしは、何もできなかった
きっと、関わってくれた人たちは、嘘でも「そんなことない」といってくれるかもしれないけど、怯えていた。そんな暇なんてなかったはずなのに。

優しくていい子な自分も紛れもなくわたしだけど、それだけで終わるわたしはわたしじゃない
そこにわたしは居ない

未熟なわたし、周りの人たちに与えてもらってばかりだったな
ありがとう、みんなで食べるご飯の美味しさを知りました
わたしはもう、それだけで十分だ

題名のつかない日々を、否定も肯定もせず
ただ、保存できない心ごと包み込みたい

2024.08.29

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