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中途難聴を諦める

水中世界

耳が聴こえないっていうのはなかなか難儀なものだ。
今から10年ほど前にメニエール病を発症し、その後遺症で俺の聴力はポンコツになってしまった。

高音域から聴力が低下する加齢性難聴とは異なり、このメニエール難聴により低~中音域の聴力が壊滅的に低下した。この音域は人の声の周波数とかなりの割合でバッティングするので、裸耳ではほとんどの音が虫食い状態に聴こえる。日常生活は困難を極めた。

「人生オワタ」

齢25にして俺は中途難聴者となった。

当時は塾講バイトをしながら国家試験の勉強を惰性で続けていた暗黒時代だった。
勉強に全く身が入らず、現実逃避のため可処分時間の大半をもももクロに捧げるというオタクの模範囚のような生活を送っていた(Zになったばかりの時期でとにかくアツかった)。
そんな矢先の出来事だった。

彼女もいなけりゃ定職もない。目の前にあるのは先の見えない将来と退屈な試験勉強、そして耳鼻科から処方された大量の薬だけ。唯一の武器だと過信していたコミュ力も、難聴という薮からスティックな不幸により、完全に自信喪失してしまった。バイトも辞めざるを得ず、ライブへ向かう足も遠のいた。

これから先どうしよう。
友人からちらほらと結婚式の招待状が届くようになっていたことも相まって、俺の自己肯定感はかつてないほど下がってしまった。

難聴になるまで聴力について意識したことなんてなかった。
耳の遠いご老人たちが時折見せる悲しげな表情に思いを馳せる…なんてこともトーゼンなかった。当事者にならないと分からないことって世の中には無数にある。

友人と遊ぶにもたびたびコミュニケーション不全に陥り、作り笑いが増えた。何度も聴き返すのは気が引けるし、聞き逃すまいと神経を研ぎ澄ますのは存外体力を消耗した。

人と話すこと、たったそれだけのことがただただ苦痛な作業になった。
会話中は難聴を悟られないことに必死で、内容なんて二の次になっていた。

会話の内容がある程度想定されるコンビニ・飲食店等での買い物を除いて、外出先で見知らぬ誰かと言葉を交わすことも恐怖の対象となった。無意識に人との接触を避けるようになり、結果として外交的な陰キャから内向的な陰キャへと華麗なるジョブチェンジを果たした。

療養のため実家へ強制送還されてからは、難聴はさらに悪化した。

音としては認識できるが言葉の輪郭が不明瞭。
具体的には耳元で大きな声を出してもらわないと内容が理解できないというレベルにまで転落した。(右76.3dB、左62.5dB。500Hz帯域は100dB)

かろうじて軽傷だった高音域の聴力が平均聴力を底上げして、障害者手帳の受給対象とはならなかったが、果たしてこれは良かったのかどうか。
正直「これだけ聴こえないのに健聴者っておかしいやんけ」とプンスコを禁じ得なかった。

難聴の世界、それは水中にいる感覚に近い。自分一人だけがプールの底から世界を見上げているような、そんな感じ。
ものすごく曖昧で感覚的な表現をすれば、全てが「ぽやぽや」している。現実世界で起こっていること全てがどこか他人事。明らかに脳への刺激が減り、無気力となる時間が増えた。

難聴それ自体は命に関わる病気じゃない。
けれど、現実との隔絶感に絶望して内側から朽ちていくーーーそういう恐怖や焦燥感は常にあった。

救いを求めてエンタメに逃げても、テロップのつかないトーク番組、聞き取れない映画俳優の声、セリフをかき消すほどうるさいBGM(こういうのはすごく聴こえる)…そういう「標準仕様」がいちいち俺をイラつかせた。

難聴になったことで、今まで見えていなかった世の中の「普通」という基準が急に顕在化した。

「あなたはその基準を満たしていません」
「もう普通ではありません」

そう烙印を押されてしまった気がしてひどく狼狽した。

こんな状態で仕事はできるのか。
友人との関係はどうなるのか。
恋愛は?結婚は?
不安が不安を呼ぶ負のループ。「どうしてこうなった」「時間を巻き戻してくれ」と詮なきことを何度思ったか分からない。

難聴となってしまった自分を認めることも、そこから一歩踏み出すために補聴器を購入することも、それを装用している自分を受け止めることも、どれもめちゃくちゃ時間がかかった。
前述のとおり俺は生粋の陰キャだ。感受性の高さには定評がある。

でも、だからと言って不幸を嘆き、呪詛を吐き、ただ朽ちていくのを待っているのも何か違う。絶望に半身漬かりながらも、このまま終わってたまるかと怒りに近い感情が沸いていることに気がついた。

―――もう他人と同じようには生きられないかもしれない。でも、そもそも他人と同じように生きる必要もないじゃん。そう考えるとまだまだやれることありそうじゃない?

絶望し続けるのも結構体力を使う。
絶望したくてする人はいないけど、よくよく観察してみるとそういう心の状態をあえて選択している自分の無意識の存在に気がついた。つい絶望してしまう「癖」を自覚できたら、少し傷が癒えてきた証拠。絶望にも賞味期限はあるんだ。

難聴は不便でファックな病気だけど、それによって自分の価値が下がるわけではない。これは全ての病気・障害に通ずることだ。

難聴に限らず絶望の最中にいる人たちの背中を少しでも押したいと思い、筆をとった。

中途障害

振り返れば難聴以外にも大小さまざまな病気を患ってきた。

生まれながらにして両目緑内障と左目弱視があり、幼少期に失明の危機に瀕し、手術をした経験がある。

また、現在はコントロールできているがアトピーがあり、中学時代のハードすぎる部活のストレスで超絶悪化。入院生活を余儀なくされた。(当時は朝起きるとベッドが血だらけになっていた。)

コロナの後遺症か分からないが、汎発性脱毛症も現在進行形で患っている。残り数回のところまできていたヒゲ脱毛代が浮いてラッキーだったが、なんかもうあらゆるところが綺麗すぎて新手の宇宙人のようである。
(ウィッグとアートメイクの存在には感謝してもしきれない。)

これらに加えて難聴だ。我ながらなかなかの病歴だと思う。
いずれも「一生付き合っていく系」の病気で、特効薬はないし、完治もしない。難聴に至っては現在の医学では改善すらも望めない。

中途障害のしんどいところは、症状だけでなく、この「変わってしまった」苦しみと向き合い続けなければならないところだ。

色々な病気を患ってきたけど、こればかりはどうにも慣れない。
過去の自分がひたすらに羨ましく、いかに恵まれていたかを思い知る。
他人と比べて凹み、過去の自分と比べてまた凹む。「そうではなかった自分」を知っているからこそ、執着がなかなか手放せない。

羨望、怨嗟、悔恨、憐憫…様々な感情が堰を切ったようにあふれ出てくる。そしてそれら全てが自己否定に繋がっている。
苦しくて当然だ。今までよく耐えてきたと褒めてやりたいくらい。

前向きに諦めるという選択

もし今同じような境遇にいて苦しくてしょうがないという人がいたら、無理にポジティブになろうとするなと強く言いたい。

頑張らなくていいし、自分に鞭打って前を向かなくていい。必要以上に「障害に負けないカッコイイ人間」に憧れる必要もない。
努力をして逆境を乗り越える、そういう感動的なストーリーはメディアやエンタメに任せてしまって、あなたはあなたのペースで人生を生きてほしい。

他の誰かになることはできない。ましてや過去に戻ることもできない。
人間はいつだって手持ちのカードで勝負するしかないんだから、他人の持っているカードや失ってしまったカードに執着したってしょうがない。

だったらもう潔く諦める。
執着を手放すのは確かに難しい。でもどこかのタイミングでその不毛さに気づくときがきっとくる。
昔から諦めることは悪いことだと教えられてきたけど、たぶん何かを諦める(手放す)ことでしか心の余白は生まれない。
その余白がこれからの自分の人生を形作っていくんだから、諦めるのも決して悪いことではないはずだ。

この世のあらゆるものは流動的だ。
永遠に変わらないものなど存在しないし、人間はいつか死ぬ。
皆が大好きな「普通」とかいう基準も存外いい加減な代物で、時代や環境によってその定義はコロコロ変わる。そんな不確かなものに翻弄されて一喜一憂するというのも、よくよく考えると結構アホくさい。

「これが自分なんだからもうしょうがナイトプール」
これくらいのラフなスタンスで開き直ってみた方が、パッと視界が開けるかもしれない。

悲観するわけでもなく、無理にポジティブになるでもなく、ただ事実を事実として受け止める。
そうすると「生きてるだけですごいやんけ」となるし、「じゃあこの難儀な身体を使って今からでもできることって何だろう」とちょっとだけ視座を高くすることができる(気がする)。

現実に生じている障害を不幸と「変換」しているのは自分だし、その不幸を脳内で勝手に増幅させているのも自分だ。
そして他人のカードに目を奪われ、自分なんてと手持ちのカードを過小評価しているのも他でもない自分自身だったりする。

諦めて、余白を作って、できることに集中する。
俺自身、今でもあることないことごちゃごちゃと考えて懊悩してしまうけど、最終的にはいつもここに戻ってくる。

物事を複雑にしているのはすぐに絶望してしまう「心の癖」のせいだ。そしてその癖は後天的に身についたもの。本来の自分とは関係ない。
ノイズに心を乱されなければ、人生は至ってシンプルだ。

最終ラインを死守する

参考までに現在の自分の状況を書いてみる。
あれほど抵抗感のあった補聴器は今やなくてはならない相棒のような存在となっている。現在装用しているのは3台目で、Phonakのvirto paradise 312。ブラックのワイヤレスイヤフォンのような見た目はデザイン性もよく、シンプルで気に入っている(これ結構大事)。

補聴器の導入により会話のハードルはかなり下がった。
とはいえ、正直その時々の環境や対話者との相性によって聞こえはかなり左右される。

こればかりは相手があっての話なので、いくら環境を整備しても苦手な声質・喋り方の人と当たってしまうとお手上げだ。これはもう難聴の宿命みたいなもの。
こと日常生活においては「なるほど、よく分かりました(分かりません)」などと戯言を弄してテキトーにその場をしのぐこともしばしばだ。

仕事は文明の利器をフル活用してなんとかやれている(と思う)。
固定電話の音声を無線で補聴器に飛ばしたり、パーテーション対策としてロジャー(マイクロホン)を導入したりと、環境の最適化に向けてやれることは一通りやった。それでも聴こえない時は事情を話して、聞き取れるまで何度も聞き返す。

「嫌な顔されたくねぇ~!」
「卒なくこなしてぇ~!」

そう思う自分が消えたわけじゃない。諦めを人生の中心に据えてからは随分と生きやすくなったものの、当然まだまだ揺らぎがある。

「人生は至ってシンプルだ(ドヤァ)」なんて書いといて恥ずかしい限りだけれど、それほどまでに長年刷り込まれてきた「普通」の引力は凄まじい。

それでも、そういう不安定な自分すらも受け入れてしまえばいい、と最近はカジュアルに構えている。しょうがナイトプールの精神だ。
振り子のように自分と普通の間を行ったり来たりしながら「自分らしさ」の感覚を徐々に研ぎ澄ませていけばいい。

ーーー普通・○○すべき・○○しなければ

これらのノイズに侵され、暗澹たる気持ちになることはままあるけれど、「自己否定をしない」という最終ラインさえ死守できていればきっと大丈夫だ。

自分にないものを積極的に諦める。
そして視線を外ではなく内に向け、普通の中に埋もれている自分らしさを掘り出してそれを丹念に磨いていく。
その過程で他人や社会のノイズに心を乱されることはあるかもしれない。それでも自分の可能性だけは決して「諦めない」。

さながらアーティストのような生き方をして、命を燃やしてみるのも一興かもしれない。自分らしさを解放するのも、そしてそれが受け入れられるのも「普通」の中では得られない格別の喜びがある。

前回の記事でも書いたとおり、甚だ未熟ながらも俺はそう生きると決めている。当然摩擦はあるし、課題は山積みだけれど、自分に嘘をついて生きるよりはよっぽどいい。

今がどれだけしんどくても必ず浮上するタイミングが来る。
それまでは心の荷物を軽くすることだけに全集中してほしい。
人一倍絶望癖のあった人間がこうして偉そうに高説を垂れるくらいには回復することができた。だからあなたもきっと大丈夫だ。

焦る必要はない。牛歩の歩みでもいい。肩の力を抜いて生きていこう。

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