星と記憶の旅行券
星と記憶の旅行券
私は、年間で半分も晴れないような、曇った街に生まれ育ちました。記憶のあるうちでは快晴は一日としてなく、どんよりと隙間のない雲が十重二十重にも私の空を囲んで、中々離してくれませんでした。
私はそんな街で一生を過ごしました。七五三、成人式に結婚式、そして長寿の祝いも。そしてそのどの写真も晴れやかな表情とそれと真逆の曇り空という具合でした。せめてお墓は、よく晴れる景色の良い場所に立てて欲しいのですが。
私の夫が一度、街の外の良く晴れた空と、若い緑色の草原が一緒に映る、綺麗な写真を見せてくれた事がありました。私が一度も晴れた空を見たことがないと思ったようで、随分と張り切って見せてくれました。ですが私は、部分的なものですが青空は少しだけ見た事があって、私の反応が芳しくないと不機嫌そうに「なんだ」と表情を曇らせて、それ以来その写真は見せてもらえませんでした。幼い子供のように拗ねた顔は、とても可愛らしくて。悪いことをしてしまいました。私は、良く晴れた青空ではなく、良く晴れた黒い星空を見たことが無かったのです。
そして今、私はその街で終わろうとしています。終わりと言うには程遠い、眩いくらいに白い部屋。常に視覚に清らかさを訴えてくるような部屋です。カーテンと天井、私の着ている服や、たくさん連なる半透明の溶液の管、ああ、私の肌までも、陽光や月光ではない、この星の力を燃やした光が、私を白く照らしているんです。こんな食べたら不味いだけで美味しくもなんともないようなやせ細った身体をめいっぱい照らされると、とても恥ずかしくてやり切れません。ですが、どんな未練もこれで最後にして、楽になろうと思い今に至っているのです。
ベッドに寝転んで天井を見上げる私の右手には、お守りのように大切に保管してきた形見。本来の色を思い出せないくらいに褪せたそのチケットは、私がまだ幼かった頃、祖母にこっそり連れて行ってもらったプラネタリウムの入場券なのです。今の今まで手放すことのできなかった大切なものです。曇ってばかりだった空の中にこんなにも輝く星々が佇んでいるのかと、小さなドームの中の出来事ではあるのですが、黒い空への大きな旅が、その色濃い思い出が、いつもこのチケットを手にして見ていると蘇るんです。星座の記憶は曖昧なのですけどね。
そしてこのチケットに「手に握り、強く願えば、望んだ人の夢の中に入ってゆける」という不思議な力が有るんです。祖母が夢で教えてくれたんです。笑ってしまうような話ですが、私はその不思議に賭けて、最期に夫の夢の中に現れてやろうと、現れて私という存在を努々忘れないように説教してやろうと思っているんです。色々といってやろうと。
ただ、このチケットには思うところが一つだけあって。今まで何度も強く願って、好きだった高校の先輩の夢に入ってどうにか振り向かせたいとか、時に憎いあいつの夢に入って悪さをしてやりたいと思っても、そうやって企みながら入ったのはたったの一回もないのです。私が覚えていないだけかもしれませんが。
ただ一回だけ、老衰で亡くなる祖母の夢の中に入れたことがありました。祖母はそこで私に「また会えるさ。どこかの星で、もう一度、また会える。強く願って、身を任せるんだよ」と優しく、体の底に響かせるように囁いてきました。思えば、その日はいつも私を包み込んでくれた祖母に、どんなに大きな想い、欲望でさえも霞むほど、強く強く会いたいと願い望みました。そして私の手には、このチケットが握られていました。だから私は思うのです。「一度だけ」しか夢の中に入れなかったのではないか。と。もし仮に一度だけしか入れないのだとしたら、私の今の謀も無駄になってしまいます。けれど強く願えば、私はあの人の夢の中に入れるのではないか。曇り続けるこの街で、希望を捨てれず、そしてその希望に縋って今の今まで生き伸びてきました。不治の病との闘いは、もう安らかに、楽に終えて、目を瞑って
黒い星空へ意識を放り投げ、
あなたにもう一度
会いにいきます。
小さく尾を引く星(わたし)は、広く巨い宇宙の中にいた。どこへ進めばいいのだろう。暗闇に光り輝く星々は、互いに結ばれ、なぞられ、朧気に形を照らし出す。独立した恒星には、それぞれの景色が鮮明に刻まれ、褪せることなく輝き続けている。
隣に瞬く星座たちに手をかざしても、数億光年の乖離が、星の決断を惑わせる。あなたはどこにいるのでしょう。子どもみたいに泣いているのではないですか。誰も応えることはない。内なる宇宙は教えてくれない。知らないあの人の記憶、星とあの人の記憶。やがて星は、何か思い出したかのように迷う事をやめ、自らの軌道に身を任せ、幾重にも重なる重力場をグングンと進みだす。
暗闇と重力の旅を経て、やがて一つの恒星へとたどり着いた。一際輝く巨大で力強い天体で、けれども薄っすら雲がチラついて、近づてみれば輝きのわりに晴れない場所だった。迷いの潰えた星は、その煌めく雲の奥に隠れた天体へ、何にも惑わされず、一直線に突き進んでいった。
やがてその天体と衝突し、星の旅は終わりを告げた。