作家の「癖」
最近小説を読んでいて思うのが、作家固有のキャラクターと言うものが存在しているということだ。
小説ではなくマンガになるが、手塚治虫の「スター制度」を例にとると分かりやすい。
手塚治虫の作品の中には、「ロック」「ヒゲおやじ」など、同じ人物が別作品に何度も登場している。
「ロック」でなくとも「ロック」的な性格・見た目のキャラクターが登場することも多い。
ブラックジャック、七色インコなど一話ごとにゲストキャラクターが登場する形式の作品を見ると、殊にそう感じる。
そういう、似たような性格・行動のキャラクターが、同じ作家の別作品に何度も登場しているのだ。
たとえば三島由紀夫の禁色と豊饒の海。
禁色に登場する老作家、「俊輔」も豊饒の海に登場する法律家「本多」も、傍観者としての狂言回しの役割を持ちながら最後には主人公の運命に引きずり込まれて翻弄されている。
山田詠美の恋愛小説に出てくる黒人たちはいつも同じで、フランソワーズ・サガンの作品も名を変えた同じ人物の使い回しに感じる。
それは、作家の「味」ともいえるし、「癖」ともいえる。
小説を書く側の立場になって、これは非常にやりにくい。
違う話を書いているのに同じ性格、同じ考え方の人物が登場してしまう。
キャラクターが同じセリフを喋ってしまう。
書き進めながらデジャヴを感じて考えてみれば、全く同じことを別の作品で2日前に喋らせている、という事態が何度もおきる。
これが私の「味」なんだ! と、開き直れるほど自分の技量に自信を持っちゃいないから、これは困る。
ワンパターンにもほどがある。
自分の引き出しの少なさを身につまされて胸が痛い。
これから引き出しを増やそうと思うが、どうやれば増えるのかも暗中模索、誰か目印をおいてくれと悲鳴をあげている現状だ。