花壇に首
さて、僕はいま、僅かに頭半分だけを地上に出して、冷たく湿った土の中に埋まっている。
右耳の下のくぼみ、右の頬骨、正面を向いた時の右目の瞳孔、眉間、頭頂部から左の耳へまっすぐにおろした線の中間地点、
これらを一直線に並べた線で、僕の体は地中と地上に分けられている。
僕の体は腐らない。腐らないということは、微生物だの細菌だのが餌にするだけの価値すらないということだ。ネズミやカラスといったゴミの掃除屋たちでさえ、僕の頭に興味を示しはしない。
僕は誰にも気付かれない。これは、僕への罰なのだ。
愛してはいけない、恋してはならない存在に、恋をしたことへの罰。決して許されない永劫の罪。
その罪への罰として、僕はここで朽ちてゆくのだ。
僕が埋まっているのは、ある家の庭先だ。
僕は庭の花壇の中に、顔を内側に向けて埋まっている。
僕の目の前には大きなガラス窓があり、家の中の様子を覗くことができる。
早朝、一番に起きて朝のコーヒーを入れる一家の主人や、朝ごはんをはしゃぎながら食べる子どもたち。主人の母は、毎日庭の手入れをする。
だが、僕の目はいつも、唯ひとりの美しい人の上にとまる。その人こそ僕の恋人、この家の妻であり母親である人、そして僕をこの土に埋めた恐ろしい人。
僕はただあの人に恋をしたために、この無残な仕打ちを迫られたのだ。
あの人は、昼間は貞淑な妻、良き母親を装って穏やかな時間を過ごす。
しかし、深夜彼女の家族が眠りにつくと、艶やかな微笑を浮かべて夜の街に溶けてゆく。
行き先はどこかのBARか、客同士がすぐに仲良くなる種類の不埒な店か。
彼女の前には、どこだろうと大した違いはない。彼女は、かつての僕のような純朴な青年を捕まえて、忘れ得ぬ一夜を過ごす。
といっても、忘れないのは相手の方だけで、彼女は相手のその後のことなど興味を持たない。
青年は一夜限りで棄てられる。
もう一度会いたいと出会った場所に通い詰めても、広い都会の海のなか、再会などできるものではない。再会などしない方がいいのだ。彼のためには。
僕も、その一人だった。
だが僕がその他大勢の男たちと違うところは、彼女に再会してしまったところだ。
僕は、「cervato」という店で彼女に出会った。
会社の先輩に飲みに誘われることが増え、酒の味を覚え始めたばかりの僕は、酒を飲むことが楽しくて仕方がなかった。
同じく酒好きの仲間と共に新しい店を片っ端から開拓していたときで、「cervato」も初めて行く店だった。
「cervato」とは、イタリア語で「小鹿」を表わす言葉だそうだ。「オーナーがイタリア好きでね」と、マスターが苦笑いで教えてくれた。
カウンターが8席しかない小さな店だったが、それなりに流行っているようで、平日の夜にもかかわらず二組の先客がいた。どちらもすぐに店を出ていき、店内は僕らとマスターの三人きりになった。
しばらくして、彼女が店に入ってきた。
店の扉があいて、「いらっしゃいませ」とマスターが声をかけたとき、僕は何となくそちらへ視線を向けた。
そして、固まった。入ってきた人が、途方もなく綺麗だったからだ。
どこの芸能人が入ってきたのかとめまぐるしく脳が働いたが、思い当たる顔はない。
忘れているはずもなかった。
一度見たら記憶に焼き付いて、忘れられなくなる種類の顔だった。
彼女は連れと僕とマスターを等分に見て、僕に少し笑いかけたあと、僕の二つ隣の席に座った。
「ここ、失礼しますね?」と、ほんの少し僕の肩に触れて、許しを請うように僕を見つめた、その一瞬で僕の心を捉えた早業は、全く見事というほか思いつかない。
「そっちですか。こっちも空いてますけどねぇ」と、軽口を叩く連れ。彼女は楽しそうに笑って、僕に近い席についたのだ。
そこから、僕らは楽しく呑んだ。
彼女は2杯しか飲まず、自分のことはほとんど喋らなかったが、男の話を引きだし、楽しませることに関しては玄人はだしで、それでいながら夜の女の崩れた色気よりも、きっちりと自立した女性の洗練された色香が香った。
夜が更けきらないうちに、僕らはその店を出た。
家が近くにある連れはそこから徒歩で帰り、僕と女性は終電を逃すまいと駅に急いだ。
しかし、彼女の足は店を出てすぐに鈍り始め、「待って、もう走れない」と、立ち止まってしまった。
「大丈夫?」気遣うと、「大丈夫。私はいいから、先に行って。電車に遅れちゃう」と、気丈に微笑みながら僕を見た。
ここでその微笑みに、女特有の策略めいたものを感じなかったといえばウソになる。だが、僕はそれほど女性経験がなく、違和感を感じても、それがどういうことだか分からなかった。
だから僕は、「遅れてもいいよ、一緒に行こう」と、彼女を励ましたのだ。
しかし、彼女は動かない。不思議な微笑みを浮かべて、僕をじっと覗きこんだ。
「私、帰りたくないわ。疲れちゃった」そう言って、彼女は僕の視線を捉え、すぐそばの建物へと誘導した。
鈍い僕でも、誘われていることがやっとわかった。彼女と一晩過ごすことに異存はなかったが、なにぶん不慣れな状況で、何を言えばいいかが分からない。
彼女はそんな僕の焦りも全部気付いた風で、『気にしなくていいのよ』とばかりに僕の腕をとると、慣れた調子でホテルのチェックインを済ませた。
実は、僕はそれまで女性の肌に触れたことがなかった。全く初めての緊張のなか、彼女の柔らかさとあたたかさ、そして芳しい香りに包まれながら、僕は夢のような一夜を終えた。
翌朝ホテルのアラームで目覚めると彼女の姿はすでになく、フロントの者から、彼女は夜中に出たこと、ホテルの代金は支払い済みであることを告げられた。
僕は、あまりに手慣れたやり口に、彼女のことを軽蔑しようとしたけれど、できなかった。
軽蔑するには、彼女の体が素晴らしすぎて……、彼女の声が耳に残り、目には話をしたときの横顔がちらついて、彼女を悪く思うことなどとても無理だった。
それ以来僕は「cervato」に通い詰めたが、彼女が再び現れることはなく、日々は無駄に通り過ぎた。
彼女と再会したのは、全くの偶然だった。
仕事の都合で隣県を訪れ、帰りに近くにあったスーパーに寄ったとき、子どもを連れて買い物をしている彼女を見つけたのだ。
目を疑ったが、どう見ても彼女だった。
夜のBARにいたときと違って露出の少ない服に身を包み、髪は清楚にまとめられていたけれど、見間違えるはずがない。
僕は彼女を見た瞬間からおかしくなっていたに違いない。
仕事の事など忘れて、彼女の跡をつけた。
彼女は徒歩で買い物に来ていたから、追跡するのは簡単だった。
後を追って彼女の家を見つけると、そのまま身をひそめて夜を待った。彼女は必ず出てくると、予感めいた確信があったからだ。今夜出てこなくとも、毎日張っていればいつかは出てくるだろうとも思った。
そして、彼女は出てきた。僕の知っている夜の姿で。
彼女の姿が玄関先のポーチに見えたとき、僕は立ちあがって彼女のほうへ近づいた。
彼女は車に乗り込もうとしていて、僕が彼女に接触できるチャンスは極めて短かったが、近づいてくる人影に彼女が動きを止めてくれたから、僕は、彼女と二人きりで話すことができた。
「結婚してたの? 僕のことが好きなんじゃなかったの」
僕が彼女を詰ると、彼女は困った顔をして、「大きな声を出さないで」と言った。
冷静さを失っていた僕がなおも詰め寄ると、
「困った人ね」と言いながら、僕の頬に優しく触れた。
その触れ方が、まるで恋人に触れるかのように情感のこもったものだったから、僕はすっかり舞いあがり、『やっぱり僕のことを好きだったんだ』と思った。馬鹿な勘違いもいいところだ。
「こっちへ来て」
彼女はあの夜のように、僕の腕を取って歩きだした。僕は、愛の予感に心を震わせながら、彼女の導くままに歩を進めた。
彼女は、僕を家の裏庭に連れていった。
「ここなら人目がないから話ができるわ。飲み物をとってくるわね」
そう言って姿を消し、しばらくしてコップを持って現れた。
「うちのお茶はハーブティーなの。苦みがあるけど、体にいいのよ。……喉が渇いたでしょ? とにかく、一杯飲んでしまったほうがいいわ」
勧められるままに杯を干した。喉に苦みが残ったが、そんなことは気にならなかった。
飲み干してすぐに、足元がふらつくのを感じた。そして、立っていられないほどの眠気が襲ってきた。
「ねえ、話があったんじゃないの? 聞いてあげるわよ、何も言えないの? ……ねえ、眠たいの? 眠たいんでしょう? ふふ、立っていられないほど、眠くなってきたのよね。 私、面倒事が大嫌いなの。あなたはずっと寝てるといいわ。私の事が好きだったんなら、私の事をずっと見ていられるようにしてあげる。……だから人間って嫌なのよ。ちょっとつまみ食いしただけで夢中になっちゃうんだから……」
もうろうとする意識の中で、最後に見えた彼女の顔は、口が頬まで裂けていたように見えた。
そして、それから僕は彼女の家の花壇に埋まっている。
体はどこも自由に動かすことができない。体があるのかどうかすら分からない。
ただ僕は、彼女を見つめ続ける。それが彼女に恋をした僕への罰なのだ。