易経とタロットの共時性、3
易経は山雷頤→火地晋
タロットは戦車→皇帝
山雷頤は食べて栄養するという意。
火地晋は明らかになるという意。
食べたもの、受け入れて栄養にする。
自分の血となり肉となるから何を食べるのか?
自分自身を作るものになるから受け入れるのかは大切。
火地晋は地から太陽が登ってきて周りを照らして明るくするので、食べたもの、受け入れたものが太陽が登るように表に現れてくる。
タロットの戦車は戦場を右へ左と駆け巡る様。
乗ってる人がうまくコントロールしてアチコチ走り回って戦果を上げてる。
そして、皇帝が平定されて平和になった国を城の上から眺めている。
原因と結果みたいな感じ?
自分にないものは出てこない。
なんで自分の中にあるのかと言えば、自分がそれを選んで受け入れたから。
結果として受け取らないといけないならば、当然、原因となる事をするには慎重にならないといけない。
と言っても普段の生活の一瞬一瞬が今までの結果でそれを受け取りどう反応するかが次の原因になってる。
それが普段の生活、生き方になってる。
なので、受け取った結果を見てよく考えないといけない。
こうしたから、そうなった。
という事をよくよく考えないといけない。
ならば次はどうすれば良いのか?
試行錯誤して、何が最適なのかを探っていける。
出た結果はあまんじて受けて、次の糧にする。
どうすれば良いのか?試行錯誤していく日々。
自分が気に入らない、都合の悪い事やから怒ってもしょうがない。
不平不満、愚痴ってもしょうがない。
周りの人や環境のせいにしても、それを選んで受け入れてるのは自分やから、また同じような結果が出てくる。
戦車に乗ってる人がうまく操縦できずにただ右へ左へとドタバタと走り回ってるだけでなんの戦果も得られてない感じ。
それをただ眺めてるだけの皇帝、、
良くないものを受け入れてしまったら、それ相応の結果が出る。
ならば、良い結果が出るように受け入れるものを選んでいかないといけない。
意識的に。
だいたいは脳がパターン化して反応するだけで生活できるようにしてしまってるので、深く考えなくてもパターン化された反応して生活していける。
なんでそうなるのか分からずにワァーーと怒り散らしたり。
なんでそうなるのか分からずに不平不満愚痴って酒飲んで食べて買い物してストレス発散してワァーーーって。
自分が受け入れたもの、自分の中に取り入れたものが出てくる。
血となり肉となり、自分自身となり、普段の生活態度、生き方になる。
そして、それがまた次の原因になり、受け取っていく。
毎日ありがたい、幸せと生きていれば、それを栄養として出てくるのもありがたい幸せな事になる。
毎日不平不満愚痴を言うてるとそれを栄養として出てくるのも不平不満愚痴になる。
ん?
あれ??
これって易経とタロットの結果、似たような事になってる?
またこじつけてもたかな?