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三杯目 — 逃げ道のカップ —
雨が降っていた。
夜の路地裏を、小さな影が駆け抜ける。
「……クソッ、どこかに隠れねえと……」
青年の名は川瀬 隼人(かわせ はやと)。
彼はヤクザの下っ端だった。
組の金に手をつけたわけじゃない。だが、あの幹部の女に手を出したのがバレた。
——殺される。
それだけは確実だった。
焦る隼人の目に、一軒の店が映る。
『カフェ・ルミエール』
こんなところに喫茶店なんかあったか?
後ろの通りから、車のヘッドライトがこちらを照らした。
「クソッ……!」
隼人は迷わず店のドアを押し、駆け込んだ。
「……いらっしゃいませ。」
店内は静かで、まるで別世界のようだった。
カウンターの向こうに立つのは、黒髪の店主。奥の席には数人の客がいたが、誰もこちらを気にしない。
(……やばいとこに飛び込んじまったか?)
そう思ったが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
「……ああ、コーヒー、くれ。」
「あいにく、うちの店では普通のコーヒーは出しておりません。」
店主は静かに言った。
「では……逃げ道のカップをどうぞ。」
運ばれてきたカップから、ほのかに甘い香りがした。
隼人は訝しみながらも、一口飲んだ。
——その瞬間、景色が変わった。
目の前に広がるのは、真っ赤な血の海。
「……っ!!」
知ってる光景だった。
昔、組の指示でやった仕事。カタにはめられた男を、仲間と一緒にボコボコにして捨てた夜。
「ああ……」
思い出したくなかった記憶が、まざまざと蘇る。
慌ててもう一口飲む。
今度は——女の泣き声が響いた。
「なんで……どうしてあんなことしたの……?」
昔、好きだった女だ。何度も「堅気になれ」と言われたが、隼人は組を選んだ。
(今さら……こんな……)
隼人は震える手でカップを握る。
「こいつ……なんなんだよ……」
すると、店主が静かに言った。
「これは“逃げ道”のコーヒーです。」
「逃げ道?」
「あなたが今まで選ばなかった道、捨てたはずの道を映す飲み物です。」
隼人は言葉を失った。
「あなたはいつも逃げていましたね。」
「何……?」
「喧嘩になりそうなら逃げ、面倒な話は避け、都合の悪い過去からも目を背ける。でも、人は——」
店主はゆっくりとカップを指でなぞる。
「一度失うと手に入らないものがあるのですよ。」
隼人の胸が、ギュッと締めつけられた。
(——俺は、ずっと逃げてきたのか?)
ふと、カフェの窓に視線を向けると——組の奴らが通りを歩いていた。
(やべえ……ここがバレたら……)
心臓が跳ね上がる。
だが、不思議なことに、彼らはこの喫茶店を見ていないかのように通り過ぎていった。
「この店は、選ばれた者しか見えません。」
店主が言った。
「あなたが本当に逃げたいものは、あの人たちですか?」
隼人は、ハッとする。
そうだ。俺はただヤクザから逃げてるんじゃない。
——自分の人生から逃げてたんだ。
「……やり直せるか?」
思わず呟く。
店主は小さく微笑んだ。
「選ぶのは、あなたですよ。」
隼人は、残ったコーヒーを一気に飲み干した。
次の瞬間——彼は、知らない駅のベンチで目を覚ました。
駅の時計は朝5時を指していた。
スーツ姿のサラリーマンが歩き始める。高校生が電車に乗り込む。
(……夢、だったのか?)
だが、ポケットに手を入れると、一枚のメモが入っていた。
「いばらの道の先に、逃げ道はある。」
隼人は、ふっと笑った。
今度は逃げない。もう一度、自分の人生をやり直す。
そう決意しながら、彼は改札をくぐった。