『平凡パンチの時代』 第七章 清水達夫と大橋歩〜表紙のこと〜
平成4(1992)年、12月の暮れに会社の仕事納めを見計らうようにして死んでいった清水達夫(マガジンハウス会長)は、寡黙で、ものごとをけして大げさにいわない人であった。その晩年に、『生涯一編集者』という言葉を好んで使った、『平凡』『週刊平凡』『平凡パンチ』と、三誌もの百万部雑誌を生みだした、この戦後最大の雑誌出版の巨人は、生涯に何度か、いまは伝説として語り伝えられている乾坤一擲の大勝負を挑んで、それに勝ち抜いたのである。そのなかでも最大の賭けはやはり『平凡パンチ』の創刊作業だったのではないかと思う。
これは社内資料になるが、昭和30年代から40年代にかけて『平凡通信』と呼ばれた当時の平凡出版の宣伝部が発行していたPR誌があり、この時代の社の歩みをいろいろな形で記録している。いわば、生の資料だが、この『平凡通信』の昭和39年2月の発行号のなかで清水達夫は珍しく『パンチ』創刊にまつわる自分の確信を強い口調で次のように語っている。
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