中国「軍事強国」への夢―劉明福を読む-2<矛盾>
この本の核心-台湾有事
第五章、本書の核心である台湾有事について、中国「軍事強国」への夢のごく一部を引用しながら、そのダブルシンク(二重思考)的な世界を整理しつつ個人的な感想を述べたいと思う。
矛盾まみれの主張
この本には対立するような矛盾がてんこ盛りで、真正面から真面目に捉えていくと脳みそにショートする感覚に襲われる。私の情報処理能力の低さゆえなのかもしれないが…。
その筆頭は中国は経済力で米国を追い抜き、世界一の国として、人類運命共同体による地球覇権を確立する(中国の夢)。また人民解放軍は海洋軍備力を整備し、軍事力で米国を追い抜き、「世界一流の軍隊」となる(強軍の夢)。しかし、中国は覇権を求めない。(世界一流の軍隊という部分には劉氏の倫理的訴求が強そうではある)という部分だろう。
だが、中国は言っていることと現実の乖離が激しい。興梠一郎先生曰く「言うことは高邁だがやることがえげつない。」そしてリーダーになったらルールを破るのは当然と思っている節がある。また弱い相手に居丈高に譲歩を迫る部分も見逃してはいけない。つまり世界一となった暁には唯我独尊でルールを守らず、他人には譲歩を迫る。世界に対するジャイアニズム宣言とも読めるのだ。何が覇権を求めないのだろうか。駄々っ子の幼稚園児のようではないだろうか。
そもそもチベットはウイグルはもとより、近年フィリピン沖のサンゴ礁を埋め立て軍事拠点化したことをは素晴らしい成果と言いつつ、これまで他国を侵略したことが無いというのは欺瞞である。それとも軍隊同士の衝突が起きて占領しなければそれは侵略ではないとでもいうのだろうか?
習近平かく語りき
この本で異質なところはいくつかあるのだが、その一つとして各所に習近平の発言が紹介されているところである。習近平かく語りき。彼の発言はまるで聖書の言葉のように取り扱われ、一字一句がその通り実行されなければならないと言わんばかりの論理展開がなされる。
上記は戦狼外交的対応の体現者として有名な駐大阪中国大使の発言なのだが、重要なのは軍人も官僚も習近平が何を語ったか都合のいいところを引用し我田引水的な論理展開を行っている。もはや次から次に都合の良い文章が出てくる北朝鮮の金日成全集や金正日全集的様相を呈していると私には見える。
リーダーはともに夢見る同志を求めて月を指さしているいるはずなのに、愚かな大衆は指導者の指を見つめている。ある意味ではすべての責任を習近平に押し付ける準備であり、莫言の白檀の刑が呈するような中国特有の滑稽さが既に漂っている。(テロの犯人を数日を掛けた串刺しの刑に処すのだが、そこに中国特有の、そして極めて内向きな理由で外連味がマシマシになり、人間の生死が処刑の名目のもとショーとして中国人のグロテスクなオナニーのために消費される。しかし、外国人の被害者はそもそもそんな刑罰を望んでおらず、蚊帳の外に置かれている。)
「死者ゼロ」を目指すという妄想
さて、話を戻そう。
劉明福氏は第五章で「知能戦」と「文明戦」を駆使し「死者ゼロ」で台湾統一を成し遂げるとしている。
認知戦を含むハイブリッド戦による降伏を目指すものと読めるのだが、既にこの文で矛盾が発生している。実際に軍隊同士が衝突し、戦端が開かれれば死傷者が発生するもので、「人員に死傷なし」は実現できない。中二病の妄想か空想でしかないと思う。
ちなみにここでは認知戦とハイブリッド戦については以下のものと考える。
現在、AI技術により翻訳された別の言語をスムーズに話す技能は生まれているが、認知戦の文脈では次の段階として、インプットされた動画とは別の内容を話す技術が研究されているはずである。自国の指導者が国民に対して降伏を呼びかけるような動画を作成し流すことで抵抗の意思を削ぎ無血開城を狙ったり、混乱を起こすためだ。
また、進攻が実施されれば以下のようなことが起きるだろう。
対外通信手段の遮断:海底ケーブルや衛星通信と言った外部との通信手段を断つことで比較判断や違うという情報を取得できなくする。
メディア掌握:テレビ局、ラジオ局などを通じた偽情報を拡散する。
協力者によるデマ:呼応する協力者を使って降伏したらしい、国外に逃げたらしい、死んだらしいと言ったデマを拡散することで抵抗意志を削ぐ。
インターネットの巨大LAN化:中国が既に国内で実施しているようなネットワーク規制を導入し、都合の悪い情報をフィルタリング。一方で都合の良い情報だけが流通するようにする。スマートフォンネットワークだけは残してAIで作成された一見すると判別つかない映像を添付することで付け入るスキを生み出す。
統一は平和より尊い
ただし、これはあくまでも劉氏の「高邁な理想」だ。「死者ゼロの戦争」における理想的な状況だ。双方に死者なく台湾は降伏し、中国は速やかに進駐軍を展開し、洗脳教育を開始するとしている。(国家や民族アイデンティティ分野での教育を徹底して中華民族に忠誠心を抱くように工作すると書いてある。同106ページ)
だがまずもって彼らの聖典となった習近平は台湾の武力統一を放棄していない。そして、劉氏自身、武力統一は基本的ベース。統一は平和より尊い。平和的統一は歴史的に稀有なケースと語る。
おそらく劉明福氏自身、この高邁な理想の実現を毛ほども信じていないだろう。
この章の最大の特異点と言えば延々と米国の南北戦争について言及していることであるが、それは中台問題は南北戦争のような内戦問題というロジック強化のためでしかない。
むしろ我々はこれまで武力統一という権利を行使してこなかったのだ。とまで言い、強引な理論を展開する。
しかし、軍事行動における意思と能力の問題において、人民解放軍は近年までその能力を持てていなかったのだからこれもハッタリと言うか、虚勢にしか見えないという点は書いておきたい。
少なくとも後段において「中国に有利なタイミングであれば何があろうと断固武力侵攻すべき」という主張との整合性を考えるならば、中国にはこの70-80年間そのタイミングは訪れてこなかったのだから。行使してこなかったのではなく、行使できなかったのだ。
聖戦としての武力侵攻
袈裟の下から鎧が…という表現がぴったりである。中国にとって台湾統一はジハードなのだ。いかなる犠牲を出しても手に入れるべきものなのだ。この決意の固さを甘く見てはいけない。