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哲学者は幸せになれるのか-友人の著書を読んで
今年は音楽や小説や動画やゲームなど、知り合いのつくった作品に触れる機会が多い1年でした。創造力のある人が身の周りに集まりやすいのは私に創造力がないからでしょうか。人はないものに惹かれるって言うし…。
さて、今年私が触れた作品の中で最も強く印象に残っているのが大学時代の友人の書いた1冊の本です。今回はその感想文を書いていきます。これは感想文であり、悲観主義な現代人へのアンチテーゼでもあります。著者の彼からはお門違いな解釈だと思われるかもしれませんが。きっと彼はこの本で何か答えやゴールを示したかったのではなく、この本を出発点として我々読者に考える機会を与えてくれたのだと、そう信じてここに感想を記します。
この本は9つの物語が集められた短編集。付き合う2人の男女の話や、ある女性が旅先から日常に帰るまでの話、植物に恋焦がれた男の子の話などテーマは様々です。ひとつひとつの物語の構成美はさることながら、ある話に出てきた人物が別の話にも登場するなど、この本全体を通して伏線的要素が張り巡らされており、1冊の本として大変読み応えがありました。音楽用語や映画的な小ネタの散りばめ方からは、著者個人のバックグラウンドを感じられて良かったです。
私はこの本を繰り返し何度も読みました。そして今思うことといえば、どの物語に出てくる人たちもみな心が満たされていないという印象が強く残っています。ある人は、愛しているはずの恋人と暮らしているのにどこか空虚さを感じていたり。ある人は、恋人が半年間寝たきりのままでいる寂しさを別の誰かで埋めたり。ある人は、教育の画一性に疑念を抱きながら学校生活を送っていたり。「何かが足りていない」と感じる心理描写がどの話にも、どの人物にもあったような気がします。ありもしないものを必死に追い求めて、深い退屈に襲われる登場人物たち。彼らは行きすぎたロマンチストだったのでしょうか、それとも究極の現実主義だったのでしょうか。
そしてそんな登場人物たちに私はある共通点を発見しました。みな常識を疑い、逆説的思考を持っているいうことです。あまり好きな言葉ではありませんが、「常識」とは、oxford languagesによると「健全な一般人が共通に持っている、または持つべき普通の知識や思慮分別」とのこと。常識を疑う人は健全ではない、と言われている気がしますがーそれはさておき、この本には常識を疑う趣旨のセリフが数多く登場します。特に第1話では「魚にとってもっとも理解できないのは水だ」「三つ葉にも四つ葉と同じ価値がある」「時間って本当は存在していない」といった常識を覆すようなセリフが非常に多く見受けられました。また第2話では旅に出ることで帰るべき場所の大切さを実感したり、第3話では他者愛を通して自己愛を描いていたり、第4話では罪悪感がより恋人への愛情を募らせたり。そういった逆説的な思考や常識を疑わせるようなテーマに、私は何度もはっとさせられました。
こういった常識をひっくり返すような考え方を登場人物たちが持っていたのはなぜでしょう?私は、彼らが満たされない思いをしていることに起因していると思います。彼らは自分自身の不幸な状況を、逆説的に捉えることで「自分は幸せだ」と言い聞かせているのではないかと思いました。どういうことかと言いますと、主人公たちは自分が満たされていないと自覚しており、そんな人生を無理やり幸せだと思い込むために孤独や虚しさを肯定しようとしているということ。心ではこれが本当の幸せではないと分かっていながらも、自分は幸せになることができないと思っているから不幸を肯定しているのだと私は考えます。どこか満たされない思いを抱えたまま生きる彼らは、自分自身の本当の気持ちに蓋をするために、常識を疑い、嘘を肯定し、夢を現実にしたのです。
世の中には常識的な「幸せ」の定義が溢れています。誰かに愛されること。お金に困らないこと。仕事にやりがいを感じること。打ち込める趣味があること。でもそれらは常識によって作られた幸せであって、本当の幸せの形は人によって違うのかもしれません。物語の登場人物たちは、そういった常識から一時的に離れることで自己を見直しています。孤独や恐れを積極的に望むことで、自分が幸せであることを再認識しています。大衆的には不幸だとされている状況は、むしろ喜ばしいことだとである言い聞かせているようにすら見えます。ではそうやって不幸を受け入れてしまった彼らに、幸と不幸の区別はつくのでしょうか。私は答えはノーだと思います。例えば第7話の男がもし他の女と浮気したとしたら。そのことが本命の女性に知られたとしても「君の良さを再確認するための浮気だった」と彼は本心から言うのではないでしょうか。それを言われた女もまた「私のためだったのなら」と自らを納得させると思います。ですがその後彼女は満たされない何かを抱えたまま生きていくはめになるはず。だから「浮気は許されないことである」という”健全な”常識に基づいて男を拒絶した方が幸せなのではないでしょうか。
そんな風に、自分が正気を保つためにも、世間の常識を自分の常識のままにしていた方が幸せなことってきっとたくさんあるはずです。ですが自分なりの常識が増えれば増えるほど、その尺度の合わない人と出会うと「価値観が合わなかった」「大切にできなかった」という理由で別れを繰り返し、孤独を加速させるのだと私は思います。この本の登場人物たちのように。きっと人は不幸に慣れてしまうと、自ら幸せを見ないようにしてしまうのではないでしょうか。
本当はやりたいことがあるのにそれから目を背け、自らで幸せのハードルを下げる行為。それは本当に幸せと言えるのでしょうか。本当は愛されたかった。本当は愛したかった。でもいつからか他人どころか自分すら信じることをやめた。本当は拠り所が欲しいのに、自由に遊び歩いて気ままを気取った。本当にやりたかったことを、自分ですら開けられない扉の奥へ仕舞い込んだ。本当はそうでないのにこれでいいんだと言い聞かせた。そんな、自分自身を諦めた主人公たちに会いに行って、「で、本当はどうなりたいの?」と問いかけてみたいです。
私がこの本を読んだ後に感じたことは多すぎてもはやまとめることができません。読了後しばらく放心状態でした。それは何度も常識を疑ったから。そして、すべての登場人物の気持ちが痛々しいほどに理解できたからです。主人公の心情描写が精密すぎて、「私と似ている」と錯覚させられた気さえしました。ですが彼女たちと私は真逆であったと今では思います。9人の幸せを通して、逆説的に、私は不幸を見たからです。あるいは不幸に幸せを見たのかもしれません。
しかし私は、ある一つの大きな謎が浮かんでなりません。それは常識を覆す9つの問いかけを噛み締めた末の、読者の私から著者の彼への疑問。肯定されて良い嘘があるなら。夢の中をむしろ現実世界とすなら。ピースが足りないことでパズルが完成するなら。叶わぬ恋が本当の恋なら。私は筆者の彼にこう問いたいです。「不幸を肯定する人にとって本当の幸せとはなんでしょう」?
第5話に捧ぐ