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私の「生ぬるい」は岡本太郎さんのと正反対だった

また「生ぬるい」を連発している私。

自己否定を感じるとき、そこに「生ぬるさ」を感じて自分を責めていた。

でも、どうも、私の言う「生ぬるい」は一般的な定義とは違うみたい。少なくとも、岡本太郎さんのいう「生ぬるい」とは違うようだ。


岡本太郎著『自分の中に毒を持て』

noteのオススメにあがってきた、岡本太郎さんの著書のお話。

今、自分の「やさしい世界」がキーワードに感じていることもあって、タイトルに惹かれまくる。

記事を読ませていただいて、ものすごく心が刺激される。そして、なんと「生ぬるい」という言葉まで、出てくるではありませんか!今の私にジャストミート!!

どうも、岡本太郎氏からすると、「安定した安全な道を行くこと」を「生ぬるい」と言っている。

ん??

私の「生ぬるい」とズレがあるように感じる。むしろ、逆のことを言ってないか?

もうちょっと、詳しくお願いします。ということで、岡本太郎著『自分の中に毒を持て』から引用してみる。

若い人たちに言いたい、ただのなまぬるいサラリーマンになることは容易だ。しかし、そこではほんとうの自分をごまかして、画一化するよりほかはないのだ。それよりも、自分の目、手でふれる、だからこそ危険な道をきりひらいて行くべきだ。 決して遅くはない。あきらめて、投げてしまってはならない。あえて敗れることを決意して社会にぶつかるのだ。それによって、さらに大きな、輝かしい人間像を形成していくのである。

岡本太郎著『自分の中に毒を持て』

自分を隠して他の人に合わせて、安全安心な集団の中で過ごすことが「生ぬるい」と言ってるように思う。

やっぱり、逆だ。。。

孤独を選ぶ私の「生ぬるさ」?

私が感じている「生ぬるい」を言葉にしてみよう。

人に合わせて自分を殺してまで、無理して集団に所属しないでいい。自由でいていい。それを許容している私が「生ぬるい」。

ん??

なんじゃこりゃ。

ふと、ママ友がよく口にする言葉が頭をよぎる。
「それ、一人でできるんや。強いな。」

何回か、そう言われることがあって、そのたびに目からウロコが落ちる感覚がする。

いやいや。一人で行動する方が楽やん!!
誰かと一緒にやるのって難しいやん!!めんどくさいやん!!!

ま、これが私が「みんな」と根本的に違う点なんだろうけど。

仕事で、人と協働することで、一人では手に負えないことをもやれるんだ、と学んだ。それぞれの力を活かすと、ものすごい大きなこともできちゃう。

でも、人と力を合わせるには、ものすごく努力が必要で。

そもそも、その集団に所属していること自体に、ものすごくエネルギーが必要で。

学校では、みんなで協力しましょう、と教えられる。それが「当たり前」で「常識」で。

でも、「もういいやん。無理に『みんな』に合わせなくても、大丈夫。」と言いたい私。

たまに出会える気の合う人たちと、こぢんまり楽しくやったらいいやん。「みんな」とは違っててもいいやん。自分たちだけの感覚に沿ってたら、それでいいやん。

そういうのが、私の「生ぬるい」世界なんだ。

より孤独な方を選んでいる。

それを「生ぬるい」と呼ぶのは、ちょっと違うのかもしれない。そう気がついた。

じゃあ、これは一体何なんだ。模索はつづく

どうも、外側から見た「私」や「私の世界」は、内側の私が見たり感じているものとは、違う見え方をしているようだ。

そうか。一般的に、少なくとも岡本太郎氏の言葉では、私の世界は「生ぬるい」んじゃないのか。

むしろ、自分の感覚で、どんどん新しいことがやりたくて、集団になじまずに突き進むのは「生ぬるい」の正反対みたい。

じゃあ、何て言ったらいいんだろう?

もう少し、岡本太郎氏の本を読んでみよう。もっとぴったりくる言葉が見つかるかもしれない。

きっと私も、根拠のない自信をもらえる気がする。

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