手のひらの上で
通勤中、自転車に乗りながら、考えごとをしてしまう瞬間がある。車も来ない、歩いている人もいない、自分だけが自転車を走らせている、そういう約2分がある。
めまいが収まってくる少し前に、ふわふわーっと自転車に乗りながら、子どもの頃に慣れ親しんだお経を読む習慣に想いを馳せていた。
実家と仏教
小学校1年生から二十代前半で実家を離れるまで、お経を読むことが生活に染み込んでいる環境だった。
祖父母は熱心な仏教徒で、毎日お経を読んでいた。父母の世代でも、盆正月だけでなくお寺の年中行事が続いていた。ちょこちょこお寺に行っていた。
各家を順番にまわってお経を読むこともあって、うちに人が集まって来てお経を読むときは、家族総出で一緒にお経を読み、子どもはお坊さんや近所の人にお茶を出すのを手伝ったりした。
うちのお正月は元旦の午前0時に家族が集まり、おせちとお雑煮をいただく習わしだった。まずお経を読み、おせちとお雑煮を用意する。大人はお屠蘇の入った杯をもって、おじいちゃんの年始の挨拶の後に乾杯。
午前1時からお寺に地域の人が集まって、みんなでお経を読むので、夜中の食事もそこそこに、出かける準備をする。小学生の間は、夜中のお寺の雰囲気にわくわくした。思春期にさしかかる頃には、お寺に行くのも少なくなっていった。
仏教徒の私
そういえば、私は正式に仏教徒になったんだったと思い出す。成人したとき、地元の成人式に加えて、お寺の成人式にも参加した。京都のお寺に集まって、なんかすごい人数がお堂に並んで、出家の儀式を受けた。法名ももらったと記憶している。
お寺の子が同級生だったこともあり、もう一人の近所の友だちと一緒に3人そろって、振り袖を着せてもらってキャッキャッしながら参加した。
なんで参加することになったのかは知らないけど、おおかた母が面白がって行くことにしたのだと思う。私自身も軽い気持ちで、社会見学も兼ねてぐらいの感じだったと思う。
改めて調べてみると、私は二十歳で仏弟子になったようだ。そうかーあれは仏弟子になったということかー。気軽に参加しすぎて忘れてた。
手のひらの上で寝転がる
通勤中の物思いに話を戻すと、お経を読むことに馴染んでいたり、ましてや形だけとはいえ仏門に入った私の経験って、独特かもなぁと思った。「私らしさ」というか。
そして、ふと、そうか、ずっと仏さんに見守られていたのか、と思った。その一瞬、ぶわっと何かを感じ、仏さんがずっとそばに居てくれたのか、という安心感に包まれた。
そのぶわっとした何かが、もっとぶわーっと来るかも!とか、これはあれか!なんかつながるってやつか!と興奮して思考が入ったからか、ほんの一瞬で終わってしまった。期待ほどぶわーっと来なかったので、ちょっと残念に思いながら職場に到着した。
でも、その安心感は続いていて、なんか西遊記の孫悟空の気分になった。自分がいくらジタバタしても、いくら頑張ってみても、結局、お釈迦さまの手の平の上で転がってるだけか、と。それならお釈迦さまにすべてを預けて、安心してればいいわな、と腑に落ちた。
神様におまかせする、という感覚は、こういうことなのかもしれないな。お釈迦さまの手のひらで、リラックスして楽しんでればいいんじゃない?みたいな。ジタバタしても、何してても、結局手のひらで転がっているだけのことと思えば、せっかくだったら、ニコニコ楽しく過ごしてたらいいやん、てね。
お釈迦さまの手のひらの上で、寝転がってリラックスしてたら、そのうち、そろそろ働きなさいよって言われるかも。それまで寝転がっていたらいいのかも。