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感情が薄めの私が泣けるようになった
自分はこういう人間なんだから、しょうがない。と、前向きに自分をあきらめることを目指して、自分と向き合っている。
最近思っているのは、自分の「感情の薄さ」について。
年度末のこの季節。人との別れが目白押しで。
ずいぶん、感情が豊かになってきたなぁと思う。
だからこそ、もともとの薄情さが認められるようになったのだと思う。
感情の薄さ
小・中・高校と、卒業式では全く泣かなかった。友達が号泣していて、正直まったく理解できなかった。やったー!卒業式だー!と喜んでいた。早く次の学校に行きたくてしょうがなかった。
友達と別々の学校に行くのも、特に何も感じなかった。新しい環境を楽しみに感じる方が強かった。
感動する場面という意味では、テレビで甲子園やオリンピックまでの道のり、みたいな番組を見ても、冷めた目で見ていた気がする。姉がそういう熱い番組が大好きで。一緒には見るけど、自分から進んで見ているわけではなかった。
お別れのメッセージの寄せ書きも、あまり好きではない。書くときは、一生懸命その相手に感謝の気持ちを伝えるようにしてるけど。もともとは、何を書いたらいいのか、わからなさ過ぎて、メッセージを頼まれるのが苦手だった。
変化
大学生のとき、1年間留学する直前に、サークルの友達が寄せ書きをプレゼントしてくれた。普段はサプライズも苦手だけど、そのときは本当に嬉しくて。泣いた。留学してから一人心細いときも、もらった寄せ書きと写真を壁に貼って眺めて、元気をもらっていた。
今でも寄せ書きは、どちらかというと苦手だ。表面的な言葉がつづられていると寂しくなる。それなら、いっそのこと無い方がマシだと思ってしまう。自分も表面的にならないように、一生懸命考えるようにしている。
でも、その一方で表面的であっても、わざわざ時間と労力を自分のために割いてくれたことには、感謝できるようになったと思う。
卒園式
次女の保育園の卒園式で、一緒に頑張ってきた先生や他の保護者と共に涙を流せたのは、自分としては、すごく成長を感じた。子育てのあまりにもしんどい時期を、誰かに相談することで乗り越えたからこそ、共に涙するという経験につながったのだと思う。
ただ、本当のことを言うと、去年の方が号泣していた。卒園児の保護者に、「え、泣きすぎやろ」と笑われた。年中の保護者として卒園式に参加して、「年長さんってすごい!」「ほんま卒園おめでとう!」「ここまで大変なこともいっぱいあったなぁ」の気持ちと、「来年はうちの子も卒園かー!」とで感極まってしまった。
それは他の保護者も言っていて。卒園児の親は、せっかく素敵な服を着せたのにシャツがはみ出てるとか、ネクタイやリボンが曲がってるとか、大きな声で名前を言えるだろうかとか、気にかかることが他にありすぎて、なかなか感情全開で見ていられない。
それでも今年、号泣してしまった元担任の先生を見て、自分も泣けてくるし、みっともなく泣かないように一生懸命おさえていた自分の心は、本当に成長したなぁと思う。
あ、でもこれ、別れに対して泣いてるわけではないな。別れはやっぱり泣きポイントではないのかも。
それはともかく。
何が言いたいのかというと、少し感情豊かになってきて、いっそう、自分の感情の薄さを感じるようになった。というか、自分のもともとの感情の薄さを認められるようになったのだと思う。
悲しくなれない自分は薄情だと、自分を責めていたのかもしれない。
別れを、あまり悲しく感じないのも、自分らしさなのかもしれない。
薄情な自分でも、別にいいか、と思えるようになった、この春です。