自分の本質を認めたら起きたこと
地に足をつける
自分は本質的に異質な人だったんだ!土台からして違うんだ!と認めることで、地に足をつけることができるのかもしれない。
それまで「なじめないこと」に意識が行きがちだった。「浮いている部分」に目が行きがちだった。
でも、本質的に違ってるんだから、しょうがないか!と、前向きにあきらめると、あら不思議~。「何をしたらいいか」と具体的な対策を練り始められる。
地に足をつけて、この地に住む他の人たちと一緒に暮らしていくために「何が必要なのか」。
やっと、それを考えられるまでに、落ち着いてきたのかもしれない。
宇宙人
「宇宙人」という言葉を使うと、私には簡単に感じるし、感覚的に捉えやすいんだけれど、「本質的に何かが違う」「少数派」の人ってだけなのかもしれない。
それは、「外国人」と「日本人」もそうかもしれない。「発達障害の人」と「定型発達の人」かもしれない。「トランスジェンダー」と「シスジェンダー」かもしれない。少数とかではないけど「女脳」と「男脳」もそうかもしれない。
しかも、それらは二分されるんじゃなくて、濃い薄いのあるグラデーションなのかもしれない。
感性の違い、感覚の違い、常識の違いなんかがあるのかもしれない。
同じところも違うところもある
ただ、本質的に何か違うぞ!という人たちが一緒に暮らすというのは、お互いに努力が要ることだと思う。
違うところだけに目をやって、指摘しあって、意識するのはちょっと違う。それはちょっと悲しい。
同じところも、もちろんある。だって、今、地球に生きている人間同士だもの。
同じところは「同じだねぇ」と思えばいい。違うところは「違うんだねぇ」と思えばいい。
違ってても大丈夫
違っているということを、見て見ない振りをするのはやめた。
違ってるのに、同じだと言い張ろうとするから、つらくなるんだ。
違ってて大丈夫。少数派でも大丈夫。
ただ、違うからこそ必要になる努力というのは、あるのかもしれない。「なんだか本質的に異なる人」として地球で生きていくために。
本質的に違うから、できないんです~。孤独に生きるんです~。というのでもなくて。
少しだけでいいから、歩み寄る。少しでも歩み寄る気があればいいと思う。
お互いにどんなに違っていても、それなりに、ふわっと一緒にいられる空間になればいい。
これから、多様性のあふれる人間関係が増えてくると思う。そうなると、受け入れざるを得ないのだから。
多様であることを。
多様性とともに生きていくことを。
自分で認める
ひととおり、「宇宙人」への思いは落ち着いてきた。
きっと、人と違って大丈夫、と腹オチしたんだと思う。ちゃんと自分の腹に収まってきたというか。
一番認めてなかったのは、自分自身だと思うから。一番許せてなかったのも、自分自身だと思うから。
やっと自分でも、違ってたら面白いやん、って思えるようになってきた。人のことを見て、違ってて面白いやん!ってすんなり言えるのを、そのまま自分に言ってあげたらいいんだ、と思った。
まぁまだ、私にはわりと難しいんだけども。
でも、あー、私も全開で楽しく生きたいー!と思うようになってきた。