出産を控えた今、思うこと
明日から、私は今までの私ではいられなくなる
今日が、自分が自分のことだけ考えていてもそんなに責められることのない、最後の日。この表現があっているか分からないけど、最近強く意識する「最後」を、私は一体なんの最後だと思っているんだろう…と考えたときにふと、意識に上ってきたことば。
なんで最後を意識するのかと言えば、明日が分娩予定日だから。私のおなかの中でピコピコと動きつつ育ってきた子が、おなかの外の世界に出会う日。
何が変わるのかと言われるとうまく答えられない。
もしかしたら、案外何も変わらないのかもしれない。もちろんライフスタイルは変わるけれど、自分自身の内面は意外と「なんだ、別に今まで通りの私でしかないじゃない」と思うのかも、しれない。
けれど「母になる」というのは、私にとっては結構、すごく、とても、大きなこと。
例えるなら、20歳を迎え、成人の日を前日に控えたあの時の気持ちと、少し似ているかもしれない。
あの時も、漠然とした不安に覆われて、それでも少しの高揚感も確かにあって、不確かな気持ちの赴くままに、こうやって日記を書いていたっけ。
自分の時間は延長線上に流れていて、別に20歳になったからと言って「ハイ、私はもう成人ですよ」とバッジをつけて回るわけでもないし、周りから見たら何も変わらない。自分の中身も大して変わるわけでもない。
それでも確かに、社会的な自分の役割が追加されて、もうこのままではいけないのだ、と思わされる力がのしかかってくるような。
そんな感じだった。
一方で、あの時の自分と決定的に違うところもある、そうはっきりと感じている。そんな「最後の日」だからこそ、あの時と同じように気持ちを掘り起こして記録してみたい。
妊娠したときのきもち
思い返せば10月10日前、実際に妊娠が発覚したのは、1月末のことだった。
その時私は経済産業省が実施しているJ-star Xという、起業家のためのシリコンバレー視察に参加していた。
来るはずの生理が来ないことに違和感を覚えつつ、現地の摂食障害治療施設にアポを取っては訪問し、英語のピッチ資料を作成しては練習し、とにかく休まずに動き続けていた。
身体が熱っぽくてずっと体調が悪くて、生理も来ない。これはもしや…?と思い飲酒を止めて、沢山の現地で出会った女性起業家の先輩方に助けてもらった(吐き気で食欲がなくなっていたとき、男梅キャンディーや練り梅を下さったのは、正直泣きそうなほどに嬉しかった…(笑))。
慣れない土地で慣れない英語プレゼンを準備しながら「妊娠してるのかも」という予感と共に感じていたのは正直「不安と絶望」に近かった(我が子に対して本当にごめんでしかないけど、実際にそう思った)。
私は、高校2年生から社会人2年目くらいまでの8~9年程度、結構重めの摂食障害に苦しんでいた。
月経が止まっていた期間は少なくとも5年。低体重の時には婦人科で「子宮がかなり小さくなっている」と言われ、無月経への治療として低用量ピルを処方されていた。
*ちなみにガイドライン上では、貧血や低栄養状態の悪化を防ぐため、低体重時の女性ホルモン療法は必ずしも正ではない…とされているが、残念ながら産婦人科医師の中でも摂食障害についての認知度はまだまだ低く、ピルの処方など月経誘発を主な治療方針とする医師は少なくない。ここは自分の法人を通じて、もっと啓蒙周知を頑張りたいところ!
https://edcenter.ncnp.go.jp/pdf/research/amed/medical_cooperation_02.pdf)
その後私も色々勉強する中で、学術的な研究の中では摂食障害予後の妊孕率(妊娠のしやすさ)は、摂食障害罹患歴の有無により変化しない…つまり過去摂食障害になっていても妊娠できるよ!と言われていることは理解していた。
とはいえ、実際に子宮は小さくなっていると言われたわけだし、摂食障害の経験者の中には不妊に悩んでいる方が少なくないということも、多くの経験者との出会いから感じていた。
だからこそ「きっと私は不妊治療を受けることになるだろう」と思って、パートナーにも状況を説明し、早めに妊活をスタートさせたのだった。
そしたらなんと、あっという間に妊娠してしまった。これはもう、夫婦ともに本当にサプライズ。長期戦で取り組む覚悟をもって妊活開始したのに、約1か月もたたないうちに妊娠するなんて、まじか、でしかなかった。
パートナーが6つ年下でキャリアもこれから!という時に、これは吉と出るのか凶と出るのか…最初の方はそんな風に思って、シリコンバレーでは不安で結構泣いていた。
皆からかけられる「おめでとう」
そんな私の不安・絶望なんて気持ちとは裏腹に、周りは皆おめでとう、と涙ながらに喜んでくれた。
私の病歴はもちろん、私とパートナーがどちらも起業して忙しなく過ごしていることもあり、周りの親族は私たちのライフイベントについて「諦めムード」だったらしい。後々話を聞いてみると、口々に「しばらくは無いだろうね」「むしろいつか起こり得るんか…?」「いや、ないでしょ」…と噂していたらしい。とんだ親族内ゴシップだ。
「おめでとう」「本当に良かった」
親族、友人、同僚からそんな風に言葉をかけられる度に、胸がきゅうっとなった。
本当におめでたいのかな。このタイミングで子供ができることは「ベスト」だったんだろうか。
今の私に、親になるなんて、人間を育てるなんて、できるんだろうか。
自分の会社はどうなるんだろう。パートナーの会社は、事業は?
…そんな風にワッと不安に襲われていたので、おめでとうと言われるたびに「おめでたい事だと考えられていない自分」が浮き彫りになって、そんな自分に宿ってしまった子供が可哀そうで、情けなくて、何とも言えない顔をしてお祝いを受け止めていたと思う(実際に、何人かには「おめでとう!」と喜ばれた直後に、私の顔を見て「あれ?おめでとうで合ってる…よね?」と確認させてしまった)。
自分で子供を望んで妊活を始めたくせに、いざ出来たらヒヨるんかい!と思うとめちゃめちゃに情けないが、ちょっと心が追い付いていなかった。
でもこの時、パートナーを含め、身近で私のポンコツっぷりや弱さを知っている人ほど、真正面から喜んでくれるんだということに、驚きと、ほんの少しの安堵を覚えたのをくっきり覚えている。
「私はまだ複雑な気持ちだけれど、少なくとも周りは手放しで喜んでくれるイベントが起きたんだ」そんな気持ちから少しずつ少しずつ、現実に心の水準を合わせに行くことができていったように思う。
今後私と同じように「望んでいたし産むつもりではいるけど、心が追い付かない」気持ちで妊娠を迎えた方に接するときには、ただ手放しで「おめでとう」という言葉を投げかけるのではなく「おめでとう!(少なくとも)私は嬉しいよ!」と、自己満足で気持ちを込めて、声をかけたい。
女の子じゃなかった
そんな妊娠初期を終え、安定期に入ったのが4月。
本来性別が分かるのは5月上旬ころのはずが、4月中旬くらいで分かってしまった。たまたま診察についてきてくれていた母とも「まだ性別はわからないでしょ、女の子かね~男の子かね~」なんて話していた時、エコーをにゅるにゅる動かしている先生の手がピタリと止まった。
視線の先にある、明らかに光る二つの白い玉。これはもう…と思っていたら、先生が少し気まずそうに「性別って…今まだ知りたくないとか、何かあります?」と聞いてきた。
いやもう、それは答え言ってるみたいなもんやがな。と突っ込みつつ「男の子ですよねコレ…」と確認。帰り道に「かわいいワンピースとか着せたかった…」とあからさまにがっかりする母と共に帰路についた日のことは、まだ記憶に新しい。
私も勿論「かわいいワンピースとか着せたい欲」は結構あったのだが、正直に言うとほんの少しだけ、男の子が最初に来てくれたことにほっとした。
自分が摂食障害に悩んでいた当時よりも、今はもっともっと情報の波に飲み込まれやすい世の中になっていると思う。
自分が今の時代を生きる女の子だったとしたら、ルッキズムと痩せ礼賛に巻き込まれ、もっと摂食障害に飲み込まれてしまっていたかもしれない。その果てに、私がこの子を守り切れずに、どこか手の届かない危険に巻き込まれる可能性だってあるんだと思うと、ただでさえ人間的に未熟な自分が、混とんとした現代で女の子を守れる自信が、まだ持てなかった。
別に男の子だからと言って親としてやるべきことは何も変わらないんだけど、やっぱり女の子を取り囲む環境の方が、性自認が女性である自分にとっては敏感になりやすく、怖かった。
そうやって気をめぐらせることで、今の時代に女の子を育てている親御さん、自分の娘が摂食障害になってしまった親御さんは、どんなにか気をもんでいるだろうかと、この時帰り道に少し想像してみたりしていた。
今は子供を第一に、と言われても
安定期に入った後、私は結構仕事が怒涛のラッシュを迎えた。
人生で初めてクラウドファンディングを実施したので(https://readyfor.jp/projects/allyable)、その準備に追われるとともに、会社員として勤めている会社でも一年の中で比較的最繁忙期に突入。毎日目まぐるしく仕事に囲まれ、出張も多い時期だったので、時間が本当にあっという間に過ぎていった。
中でも一番しんどかった、というかおなかの赤さんに無理をさせてしまったのが、IVS京都への参加だと思う。
8か月でそれなりに身重な状態での参加は少し迷ったけれど、どうしても直接会って話したい先輩経営者や投資家の方が何人かいた。産後は動きづらくなるし、そもそも事業において「今」を逃すことは怖い。安全対策を取ったうえで行ってしまおう!と勢いで1週間前くらいに決めて、出張した。
どれだけ安全第一、と頭でわかっていても、やはり目の前でチャンスがあるかもと思ったら、黙ってられずに突っ込んでしまうところが災い(?)して、3日間の参加は結構しんどかった。
貧血が結構あったし、飲み会に参加するとどうしても寝不足になって疲労が蓄積していくし、会場内にはゆっくり座るところが多くはないのでずっと立ちっぱなしだし。
最終日、赤さんからの緊急SOSのようにおなかがぎゅーっと痛くなった時、うまいことブレーキ掛けながら両立出来てない自分にまたもや情けなくなる、そんな3日間でした。
結果的に物凄く良いご縁にもつながって、事業的には本当に参加してよかった。それにIVSのような今まで男性経営者が多かったところに、女性経営者をハイライトするブースや、子連れでも参加しやすいように助産師さんによる託児所ブースなんかも整備されているのが目に見えて変化を感じて、個人的にもとても嬉しかった。赤さんが産まれた後も、私はここに来て良いんだ、そう思えた。むしろ赤さんに見せたい、素敵な大人との出会いが沢山詰まっている3日間だったので、結果的に本当に参加してよかったと思っている。
けれど、帰ってきてヘロヘロになっている私を見て、両親に「今は何よりも子供のことを第一に考えるべき」「自覚がない」と窘められ、図星すぎてシュンとしてしまった。いや、シュンとするなんて可愛い反応ではなかった。「そんなこと言われてもさあ!」と反抗する気持ちを抑えきれず、むっつりと言葉を受け止めてしまっていたと思う。
「やりたいこと」と「やらなくてはいけないこと」。
妊娠出産という観点と、事業を推進するという観点、どちらにも「やりたい」「やらなくちゃいけない」が混ざっていくので、取捨選択が難しい。
そんな当たり前のことを痛感する時間だった。
産休開始と共に、感じた「最後」
7月~8月上旬にかけて、IVS参加、クラファン終了、産休に備えた会社員業務の引継ぎ…とドタバタした日常を過ごし、ようやく迎えたお盆休み。
産休に突入したことで、よし!最後に自分の事業を進めるぞー!と思っていた矢先、まさかの高熱を出し倒れこみました。
お盆休みを長めにとってくれていたパートナーと、海辺にある千葉県の親戚の家で、夏を感じながら仕事するぞ~なんて思っていたのに、ひたすら寝込む毎日。
妊娠中は薬が飲めないので、ひたすらに栄養を摂取して寝ることしか治療ソリューションがない。せっかく休みを取ってくれたパートナーにも、迎え入れてくれた親戚にも、進めるはずだった事業にも申し訳なくて、少し熱が下がって正常な思考が戻ってきたとき、天井を見上げながらまた情けなくなり、泣いた。(笑)
情けないという気持ちも勿論あったけれど、この頃から強烈に「こんな時間も、最後になるかもしれない」ということを意識していたんだと思う。
「父母」ではなく「夫婦」としてのパートナーシップを思う存分満喫できる、最後の夏。
小さいころからお世話になってきた親戚に、末っ子として甘えて、だらーんと過ごせる、最後の夏。
早朝や夕方の海辺を散歩して、なんだかちょっとエモエモな気持ちに一人で入り浸れる、最後の夏。
考えだしたらキリがないくらい、「最後の夏」だと思う瞬間が詰まっていた。今まで会社員業と自分の事業とでいっぱいいっぱいだった時間に余白ができたことで、感じる瞬間が増えたんだと思う。意識していなかった最後のチャンスに気づいて、風邪が完治してからの1週間で、慌てて沢山「最後」の思い出を作った。
マタニティフォトを撮ってみたり、小さな地元の花火大会に行ってみたり、かき氷を食べてみたり、海に行ってみたり、無駄に朝ご飯を作ってみたり。
一つひとつ、悔いのないように過ごした。大事な大事な思い出を、愛情をこめて作れたと思う。
結果的に事業の進み具合は鈍化してしまったし、甘いと言われたらそれまで。それでも、一生忘れたくない思い出が沢山出来た夏だった。
臨月を迎えて、今
プログラミングスクールに通ったり学会に行ったり原稿を書いたり赤さんグッズを買いに行ったり。そんな風に毎日を過ごしていると、1-2週間が本当にあっという間に過ぎていく。
気が付いたら残暑はすごいけれど少しずつ秋めいてきていて、入院の日を迎えていて。
え、本当にこのおなかの膨らみから人間が出てくるの?本当に私そんな急に、親になるの?
そんな焦りで心と頭がどっちもいっぱいになっていく。
自分のことも未だにままならないような私が、か弱く一人ではまだ何もできない命を守って愛情を注いで育てるなんてことができるんだろうか。
その気持ちはまさに、20歳を迎えたとき、摂食障害で体も心も、それを支える人間関係もボロボロだった時に、私が自問自答していたあの時の気持ちと少し、似ている。あの時も「こんな私が生きていて、誰かを幸せになんてできるはずがない」と思って苦しかった。けれど抜け出し方も気持ちの吐き出し方も分からなくて、依存してはいけないものに依存していたと思う。
あの時の幼く未熟で頼りない私の中身は、案外変われていないのかもしれない(そう思うと凄く情けないし恐ろしいけれど、別の人間に生まれ変わって万事解決!みたいな調子のよいことは、起きてないと思う)。
けれど決定的に違うなと思うことは、身の回りに安心して頼れる人が本当に沢山出来たということ。
地域の助産師さんとの面談や、病院での産後相談窓口などで、必ず聞かれる質問がある。
「産後に頼りたいと思える人はいますか?それは誰ですか?」
思えば当時10代~20代前半だった私も、同じようなことを健康診断で聞かれていた。
安心して頼れる人はいますか?そんな質問に対して、答え方を間違えると面倒な追加質問が待っているし、自分が「かまってちゃん」だと思われるのすら怖くて適当に回答をしていたけれど「安心して頼る」って何だろう、と思っていた。
私は別にネグレクトを受けていたわけでも虐待をされていたわけでもない。私に愛情を注ぎ、お金をかけて育ててくれた、本当に大事な両親がいる。(ちょっと、いやだいぶ変わってるけど)自慢の兄もいて、当時は付き合っていたパートナーもいた。
けれど、自分自身が「安心して頼る」ことはできていなかった。摂食障害をめぐって毎日両親とは怒鳴り合っていたし、パートナーや友人との関係も全く上手くいっていなかった。それは周りの人が悪いわけではなく、自分自身の内面の問題の方がよほど大きかったことで、だからこそ「安心して頼る」なんて、今更許されないことのように感じていたんだ。
今は同じような質問に対して、無意識的に多くの顔が浮かんでくる。
身近な両親やパートナー、友人はもちろん、地域にいる支援職の方ですら、私にとっては社会的資源として「安心して頼る」ことは別に悪いことではないと思えている。
「摂食障害を通じて周りの人を長い間苦しめてきた自分が、自分のことをちゃんと受けた愛情の分だけ大切にできていなかった自分が、親になるなんて許されない」
そんな風に思っていた20代半ばの私が、妊娠して子供を育てようと思えたのは、そんな心境の変化があったからだ。
この人に頼りながらだったら、子供は不幸にならないかもしれない。私にも、子供を守り愛情を注いで育てることができるかも、しれない。
そう思える人との出会いがあって今に至るんだということを、忘れたくないなと思う。
映画インサイド・ヘッドを観て
2日前、わー!もう映画館でレイトショーなんていけなくなるー!と思って、慌てて夜21時に映画館に駆け込んだ。
ちょっと見たいけど別に映画館行くほどでもないかな、と普段なら思うであろうディズニー映画インサイド・ヘッド。
今回新しいキャラクターとして登場した「シンパイ」を取り巻くドタバタを見て、パートナーが帰り道しみじみと「結妃は、頭の中の感情制御の中枢を、あのシンパイってやつが握りまくってるんやろな」と呟いているのを聞いて、ああそうか、と思った。
人それぞれ、感情の中心にいるキャラクターは違う。
映画の中でも、イカリが中心のリーダーを務める父親、カナシミが中心の母親、…と様々だし、同じ感情だとしても、それぞれのキャラクターの個性も結構異なる。
私の場合はシンパイが常に主導権を握っているので、リスクと懸念ばかりを洗い出して後ろ向きになって…を繰り返してばかりの日常だけれど、きっとパートナーや周りの人の頭の中で、違うキャラクターが違うアプローチで同じ物事を捉えて教えてくれるから、暴走せずに食い止められるようになってるんだな。そんなことを思った。
願わくば、私の子供は私に似ずに、私の周りの素敵な人たちのエッセンスを取り入れて、シンパイなんかにとらわれず、ヨロコビが中心人物になるような、明るく前向きでエネルギーのある人に育ってほしい。シンパイは、その分私が引き受けられるから。
あとちょうど2時間で病院に出発する時間。
入院なんて摂食障害以来なので、きっと全然違う環境なんだろうな、と思うとそれはほんの少し楽しみだったりする。
出産を経て、またどうせ今考えていることなんてぜーんぶ上書きされるくらい、いろいろな感情が襲ってくるんだろう。
けれど、今の私には「安心して頼る」スキルと、そうさせてくれる周囲の力が手に入った。そう思えば、絶望は感じない。
感じるのはいつも通りのシンパイだから、これもいつも通りみんなのヨロコビやイカリやカナシミに、ちょっとずつ助けてもらおうと思う。
行ってきます。