【自伝】しっぺ返し
私のページを訪れてくれた皆様、ありがとうございます。
そして、ようこそ!
どうも、LOLerです!
読みはローラーを想定しています。一応。
今回の執筆のお供は、ダイドードリンコのピーチティーです。
糖分を含むため、いつもよりか、頭の回転を期待できるかもしれません。
さて、今回は自伝の続きとなります。
光と影はニコイチ!とかいっちゃって。
しっぺ返し
私は中学時代に、1つ目の将来の夢、「生徒会長になること」を、大成功といえるかたちで叶えることができました。
しかし、その頃の私は、企画を成功させるためだけに、学校生活を費やしていました。
企画の参加率を考慮した交友関係の形成や、企画の通りやすさを考慮した先生方との付き合い方。
ここまででも異常ですが、それにとどまらず、日常での発言や笑顔のタイミングまで、全てにおいて
自分の意思を軽んじる選択をしていたと思います。
ですが、人には適応能力というものがあります。
こんな異常な意思決定法にも、人である私は、慣れていきます。
慣れてしまうと、元に戻ることは容易ではありません。むしろ進行していきます。
私の場合も例にならい、進行しました。
始めの頃は、中学校という特定の場所だけで発動するものでしたが、そのうち、帰宅後の家族団欒の際にも発動するようになります。
おそらく、慣れたとはいえ、ストレスの溜まる意思決定法。
疲れが溜まり、自分のままでは、家族と楽しく話す元気さえ残すことができず、仮面を被ることを選択したのだと思います。
母にはよく、「笑顔がひきつっている」と注意されました。
当然です、とっくに笑い方を忘れていたのですから。
生徒会長の私は、中学校の卒業式で、卒業生代表として「答辞」を述べました。
「ここで泣いたら、感動するよね」
練習中、こんなことを考えながら、10分ほどの原稿を暗記。
本番では、そのフレーズで涙を流し、予定通り、会場にいる卒業生、保護者、先生方の啜り泣く声を聞いていました。
「答辞」が終わり、舞台裏にはける頃、私の目から涙は流れていませんでした。
そんな状態のまま、中学校卒業、私立の高校へ入学した私は、肩書きを意識しない意思決定法がわからず、困り果てていました。
自分の言いたいことが言えないのではなく、
自分の言いたいことが分からない。
いつ笑えばいいのか、いつ泣けばいいのか、タイミングもわからない。
しかし、その生きづらさが、私に、
「肩書きを意識しない、意思決定をしたい」
という目標を、持たせてくれました。
ぎこちない意思決定
高校に入り、私は生徒会とバレーボール部に所属していました。
※中学時代は弱小だったバレー部の部長でした。
※ちなみに、高校入学時に行われた、体力テストでは、学年女子100人中6位の成績。
※自分で言うのもなんですが、文武両道、才色兼b……調子乗りすぎた。
しかし、高校1年生、生徒会の繁忙期とも言える、体育祭、文化祭が続き、部活には2ヶ月ほど顔を出せなくなりました。
部活のメンバーへの申し訳なさと、他の部員から引けをとることが嫌で、
放課後、3歳下の妹にお願いして自主練をすることもありました。
生徒会繁忙期が落ち着き、部活へ戻った頃、すぐに、大会がありました。
大会へ挑むための選手発表。私は、ユニフォームをいただくことができました。
私が休んでいた2カ月の間、毎日部活へ来ていた他部員を差し置いて。
当時の私は、「当然だ」と思っていました。
むしろ、「毎日来ていたのに、なぜ私に負けているのか」と。
謙虚さのかけらもない、人の心も持っていない。
今思えば、「長期間休んでしまって、申し訳ありませんでした」とか、「これからまた、お願いします」とか、一言くらい言えただろうと後悔しています。
それからの私は、部活での疎外感を感じるようになりました。
私の名前だけ呼ばれない放課後、でも、どうやって話しかければいいのかも、分かりませんでした。
分からないことだらけの私は、1カ月間、まともに食事を取ることができませんでした。
この頃の私は、「そうだね」だけで会話をしていたように思います。
部活も生徒会も、辞めてしまおう。
そんな風にも思いましたが、「辞める」という意思決定もしたことがない。
そこで、母に、「部活を辞めようと思う」と相談してみることにしました。
「あなたは、自分から何かを辞めることを、したことがなかったでしょう。
良かった、それができるようになって」
母は嬉しそうにニコニコしながら、そう言ってくれました。
部活を辞め、それでもウジウジしている私。
私はいつものように、食べられない夕食を眺めていました。
そんな私をみかねた母が、私を諭すように叱っていました。
叱られても何も感じることができない私。
でも、母の一言で、私はハッとしました。
※この時かけられた一言だけが、どうしても思い出せません
リビングにある観葉植物がはじめて緑色に見えて、
目の前にある夕食が、とても美味しそうに見えました。
※本当に、色が見えるようになった、という感覚がありました
その日から私は、
ご飯は、人より食べるし、
誰も笑わないような寒いギャグでも、自分が面白いと思ったら笑うし、
つまらないと思ったら、つまらないと言うし、
好きになれない人からは距離をおくし、
大好きな人には、これでもかというくらいベタベタするし、
泣きたい時に、涙が出るようになりました。
コミュ力お化け爆誕!!……みたいな感じです。笑
そしてもう一つ。
「自分の好きになった人にだけ、好かれたい」
と思えるようになりました。
※ちなみに、自分を蔑ろにした、馬鹿げた意思決定法をしていたことで、営業活動は捗っています。笑
再会
今年の1月の成人式で私は正式に大人の仲間入りを果たしました。
※大人なのは見た目だけ……
※これから頑張っていきます
私たちの中学校では例年、同窓会を、その年の生徒会長だった者が幹事、生徒会役員が運営で開催しています。
11月、コロナ禍で同窓会は中止かと、油断していた私の元に届く、
「同窓会やらないのー?」
同級生たちからのメッセージ。正直震えました。
半年ほどかけて準備をすると聞いていた同窓会の準備を、わずか2ヶ月で。絶対無理。
そう思いつつも、やらなければならないという使命感。
100人を超える規模のイベントを、2ヶ月で。しかもコロナ禍。やっぱり無理。
と葛藤しつつも、仲間たちに協力を求め、どうにか準備を終えました。
同窓会準備に翻弄されていた私には、もう一つの葛藤がありました。
「中学生時代の同級生とどう話せばいいのか」
と、いうものです。
人の心を持っていなかったあの頃の私は、今思えば、懺悔すべきことのオンパレード。
会うのが怖い、会いたくないと、
前日まで、「幹事だけど行きたくない」と泣いていました。
母から一喝され、どうにか当日を迎えた私。
成人式、同窓会ともに無事に終え、安堵していた私の元に届いた、
「ありがとう」
「思い出になった」
「かっこよかったよ」
同級生たちからのメッセージ。また、泣きました。
あの頃、誰も私なんか見ていないと、1人で突っ走っていた私。
見ていなかったのは、どうやら、私の方だったようです。
皆さんも、素敵な出会いを見逃さないように、
仮面はつけず、あるがままに。
エンド
次回予告
自伝はこれにて以上!
いつか、そんな私のそばに居続けてくれた、
両親、妹、友人
についてもお話しできればと思います。
当時の同級生たちが、この記事を読んでいると仮定し、一つだけ。
あの頃は、とっつきにくい私と仲良くしてくれてありがとう。
今は、多分、前よりか面白いよ。笑
飲みに行こう。笑
あと、今更ながら、友達になってもらえませんか?もう一度。
さて、次回からは、念願の他伝です!
お楽しみに!
最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。
では、また!
自伝の前半はこちら↓
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