見出し画像

労働者の最大出力について思考する

2024/09/18、水曜日、平日、朝。通勤時間が長い。わたし自身のことを言えば、テレワークできる日が、年々減っている。その原因、間接的な要因あるいは背景として、私を含めた「労働者たち」の働きが、経営者にとってイマイチだからだろうか。そうだとすれば、実に残念なことだ。

また、こうも考えられるだろうか。「いえいえ、」「会社として生き残っていくためだよ」「より価値ある仕事を皆で生み出していくためだよ」「顧客に心の底から寄り添って、社会に価値ある成果を作り出していくためだよ」「会社として、従業員ひとりひとりの未知なるポテンシャルに向き合って、最大限成長できる環境を整えるためだよ」など。こういった声が、まわりから聞こえてくるだろうか。そんな気もする。

いずれにしても、ある条件で雇用された個人が、あらん限りの力と時間、熱意を傾けて、その任務より他には何もなきかのように、最大限の出力で働いてくれたら、経営者として不満はないだろう。そういう個人にこそ、多少の差はあれど報いたくも思い、金をもらって働く以上はそれで当たり前、とんとんだよと諭したくなる気持ちも、あるいはあるかもしれない。

この、最大出力を個人に促すにはどうしたらいいだろうか?彼らまたは彼女ら「をして(に)」最大出力を出さ「しむ(る)」(せる)方法は、仕掛けは何だろうか。古典的にはダイレクトに「飴と鞭」、少しだけひねれば「北風と太陽」、私が大学で基礎的に学んだ「オペラント条件付け」が真っ先に想起されるし、それらを今どき風にアレンジした、施策のようなものを会社などの組織はセットしたりするのだろう。組織にとってよき人、よき行い、貢献を定義して、個人の競争心や自己承認欲求を刺激しながらときにゲーム要素を入れて、あたかも自主的に最大出力を出しているかのような感覚を得てもらうこと。騙されているのではなく、わかってやっているのよと、個人が意識している場合もあるだろう。

個人における快の追求、不快の回避。その繰り返し。思いきり単純化して考えたときにその繰り返しが行われていくと考えると、個人としてげんなりするというよりも、まあそれもそうだよなと思うばかり。

うっかり電車で思考を巡らせていたら、だいぶ時が経ってしまった。この、うっかり集中して没頭して没入してゾーンに入るような、フロー状態のような、楽しくてあるいは苦しくて苦しさから逃れたくて、最大出力を出してしまうこと、ここに私は一番注目する。本当であれば行動経済学の是非や、依存症ビジネス、ドーパミン分泌の個人差、天岩戸のような好奇心、興味ドリブンの仕掛けのこと、ええじゃないかのようなムーブメント、集団心理の話などに関連づけながら書いていきたいところだが、通勤前のわたしにはだいぶtoo muchなので、一旦ここで締めたい。

なかなか面白く過ごすことができたので、長い通勤時間も絶対的な悪ではないのだと合理化して、自分に言い聞かせているところだ。

おしまい

いいなと思ったら応援しよう!

LOIKA
サポートお願いします。いただいたご支援は書籍購入、セミナー参加に使わせていただきます!