もやもや出費と、すっきり出費。ある見分け方(仮説)
2024/09/18、水曜日、平日、夜、電車。気分、悪くない(良い)。今さきほど、一ついい判断ができたと思う。「先のばし」を活用して、ある出費を数千円セーブした。支払わずに済んだ。
忙しい方のためにタイトルを回収する。「もやもや出費」と「すっきり出費」の一つの見分け方は、「自分優先かどうか」という点だと考えたのだ。「義理で」「誰かに引け目があって」「人の目が気になって」「見栄で」「吝嗇だと思われたくなくて!」などなどで出費する場合、自分優先にならないことが多い、というのが今回の一大テーマだ。※もちろん気持ちよく、義理や付き合いで払うこともある。そういうこおももちろんある。
とにかく私は「そのとき」(そのときだ)、どうしようかと考えて、とにかく少し歩いた。歩きながらまた考えた。呼吸をした。意味もなくメールを確認した。そして、そっと踵を返した。つまり、そのまま帰ることにしたのだ。
その後私はこのようにメモを書いていた。「出費を冷静にやめた自分がいることに少し喜んでいる。日本円にして数千円の価値だが、体験と気分からすれば数万円を得たような満足感がある。」
さらにこうだ。「何において冷静だったのか、何において合理的だったのか、基準ははっきりしなかったが、今思えば、それは『自分を最優先にした』という点だろう。自分を最優先にするような出費で、それが未来志向においても自分優先のものならば、なんと葛藤もなく数千円を支払ったことだろう。」メモをしながら思いついたので、ここだけ時制が現在形なのだ。
さてこのことは、出費をやめたそのときには思い浮かばなかったのだ。なぜかすっと、自らの内なる波のようなものが引いていくのを感じて、私はそこから帰ってきたのだ。その後振り返って考えてみたところ、そうだこれは「自分を大切にした選択肢」だったのだと、私は気づいたのだ。当たり前に思う人もあるかもしれないが、私としてはなかなかの気づきだった。
自分優先とは、かくも難しいものなのかと驚くし、後からみれば呆れもする。「滅私奉公」は、やけに染みつくもんだなと思ったりする。同じ音なら、「メッシ咆哮」の方がテンションが上がるだろう。私見だが、親父ギャグ、駄洒落は堂々と提示すべきだ。
とにかく、こういった自分優先というのは、できる人にはあまりにも当たり前、自明のことであるのに対して、それが難しい人というのがいるのだと体感している。この原因や要因の話はいったん置いておこう。それが原因であるのか目的であるのかといった話もまずは捨て置こう。それゆえ、フロイトもユングもアドラーも、この場では出番なしということだ。
自分優先にできる人は、引き続き続けたらよろしく、自分優先を忘れがちな人は、歩いて呼吸して意味もなくメールを見たりして、心を落ち着けて自分に問いかけてみたらいいのではないか「これって、自分優先の選択肢なのかい?」「これって、自分を大切にしている選択肢なのかい?」と。もしかしたらピンとこないかもしれないけれど、この感覚を問い続けることには意味がありそうな気がしている。フィーリングで。
また、いい説明がないかを考える機会を作ろうと思う。とりあえずここでは素敵な、論理的な締め方がわからないので、ここで締めたい。
おしまい