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2022年12月4日
二十歳
その日に限らずこのひと月ほど、自分の仕事の出来なさに不快感を覚えていた。不快感というのは刺すような痛みではなく、絶えずまとわりつく比重の重い泥のようなものを心に残してゆく。昨日を生きるのも明日を生きるのも、本質的に変わらないような心持ちがして、寝る時間だけが幸せと感じるような毎日が暦の上を流れていく。何をやるにも活力が必要とされ、頭ではそれがたいしたことのない、思い過ごしだというのが分かっていても、体と心が付いてこない。
新しいゲームを買った1週間前には、ゲーム機をレジに持っていくのですら浮いた気持ちにはなれずにいた。少年時代をゲームに費やした自分にそれは感傷を深くじわりと残した。ゲームに対する姿勢ひとつとっても自分が昔思い描いたような未来の自分でないことが既に明らかになりつつあった。10年後の自分に対して明瞭な予想図を立てるような聡明な子どもではなかったが、飽きずに何百時間もゲームに興じていた時分には、二十歳になったとしてもゲームをしている自分を疑いはしなかったし、不寛容な大人たちを見て、生まれ育った世代の違いだけが私たちを隔てるのだとばかり考えていた。
月日というのは否応にも流れるもので、来月には成人式を迎える身となる。
誕生日を心の底から喜べなくなったのは、別に、親からのプレゼントが貰えなくなったからというわけではないだろう。年の数がひとつ増えるにつれ、なにも成し遂げていない自分に焦りを感じ、漫画の主人公のような劇的な人生を送ることを諦める。ただ他人を応援して、背中を見つめながら生きるというのも受け入れられない私のような人間には、これ以上先に進める活路を見出すこともできなそうである。
目の前が見えるのは、生物として、知恵の動物である人間として、必要な能力だけれど、目が良すぎるというのも決して良いことではない。
過ぎたるは及ばざるがごとしとは、よく言った言葉で、未来が見え過ぎていては、ニヒリストにならざるを得ないだろう。それでは怠惰を貪る畜生と変わりはない。それ以下にもなりうる。適度に短い視野で、走り続けることぐらいしか、動物が生きていく道はない。
この一年半で身の程は知った。一年半前の自分に比べれば、色々な行動を起こしたし、成功も挫折も受けた。他人の生きる道を見れば、それがいやに良く見えるものだが、なんだって急には曲がれないものだ。高校三年生の時、とにかく前に進めばいいと考えていたものだが、今の自分は前にすら進もうとしていない。
やるべきことをやるべきだ。明日の自分に恨まれたくはない。