【悟と人】
※下記必読
本記事の内容を扱った二次創作の仕方を含む、本記事の内容の扱い方については、【ももちの一次創作物に対する二次/三次創作ガイドライン】 【ももちの記録庫の著作権についてのガイドライン】を参考にしてください。
〈家族構成〉
私は悟を観測する人間なので、解説は基本悟視点で分かることをメインに書いています。
※以下長文が続きます。読みたいときや確認したいときだけ読むのを推奨します。
祖父
祖母
母親
父親
三浦島悟
〈三浦島家時系列〉
悟ママ誕生。
高校生の悟ママ、母を亡くす。
祖父、悟ママを育てる。
悟ママ、高校卒業後に実家を出る。
悟ママ、仕事を通して悟パパに出会う。
悟ママと悟パパ、結婚。子供が生まれた時のためにじいちゃんの店の二階のアパートへ引っ越す。
三浦島悟誕生。
悟、小学校入学。
悟の両親、離婚。
悟くん小学校高学年
悟、中学校入学。
中学3年生の夏。概念悟発現。
※以下さらに長文が続きます。改行もほぼしません。読みたいときや確認したいときだけ読むのを推奨します。
三浦島悟とタコピーのおはなし、しよや。一応読んだ。えと、無料で読める分は。3話くらい読んでない。……ほんとはしずかちゃんの家の様子とか一応自分が読み返せるようにスクショしたんだけど、読み切ってぐるぐるするどうしても言いたい気持ちの中で、「いややっぱりこの写真を『三浦島家の参考画像』として記憶しておくのは絶対違う」と思ったのでここのメモ(noteでの公開分ではなく個人的な保管場所に載せるメモ)にもその写真載せないよ。えーとね、この感想メモを読むにあたって一番に理解しておいてもらいたいことは、三浦島悟としずかちゃんの家庭環境は、部分部分が似ているだけで全く別のものである、ということです。そもそも“同じ”家庭環境なんて存在しないし、三浦島家のお父さんとお母さんの離婚理由と、久世家のお父さんとお母さんの離婚理由は違うしね。そんな諸々の理由で。違います。でも、似てるところがあった。主にその話をまずしたいかな。えとねー、最終話を一番最初に読んで、その時点で、「きみだけのものじゃないパパ」て表現にほああってなってちゃんと1話から読み始めたんだけれども。うーーーん、タコピーの原罪そのものへの私のもぐもぐとした感想は後に置いておくとして、三浦島悟の話をしよう。三浦島悟というか、三浦島家を取り巻くものってまさにそれなんですよ、ちょうど私もそれをテーマに彼らを描くつもりで生きてるんだけど、彼らは「きみだけのものじゃない」。悟ママは悟だけのものじゃないし、悟だってママやパパやじいちゃんのものなんかじゃないし、悟パパだって悟のものじゃないし、悟ママのものじゃないし、じいちゃんだって悟のものじゃない。三浦島家……というか、私は(もはや省略して悟ママを「ママ」と書くことにするけど)ママのキャラクターデザインをする際に一番意識していたのは、「悟のお母さんは悟のものじゃないし夫のものでもないしじいちゃんのものでもない」ということなんだよな。正直言ってね、三浦島家で一番輝いて生きてる歴が長いのは悟のお母さんだよ。悟は輝いてるけど、まだ幼い。輝いて生きてる歴が短い。でも悟のお母さんは、あの人、生涯主人公だよ。あの人ほんとに主人公適性高いんだ。輝いてる。くさる気持ちとか腹立つこととか、あの人にだってたくさんあったけどでも、「自分がしたいように生きれば自分は最高に気持ちいい」ということをきちんと知ってるし、そこに関しては我慢しないから、だからいつも芯が通って見える。悟にだってそう見えてる。そういうキャラクターなんです。彼女は、正直誰よりも、誰のものでもない、悟ママだけの人間が悟ママだよ。ああ、こういう時ちゃんと彼女に名前をつけていればよかったと思う。悟ママはもはや、「悟のママ」であるだけでもないんだから。ここでは便宜上、悟のママとして表記します。くやしい。ごめんね。でも人一人に名前をつけるのもすごくエネルギーいるので…笑 ごめんよ。
それはそれとしてね。悟ママを筆頭に、そんな悟ママの躍動を見守ったじいちゃんや、そんな悟ママの光を学んで育った悟、そんな悟ママの光に照らされて着いていく気が失せた悟パパ。
悟ママは、自分の気持ちいいを追求しつつも、「産んだ子供をきちんと育て守ること」を成すことだって自分の心の清々しさ、気持ちよさに繋がるから、悟をたくさん愛してる(そこに関しては「産んだ子供が愛おしくなってしょうがない」という気持ちもあるのかもだけどね。私は悟ママじゃないから詳しくは知らない)。畳屋の仕事だって、今まで通り働けなくなった先でじゃあ何をするのが一番気持ちいいかと考えた結果「もうあんな歳になってしまった父の仕事を継げるものなら継いでみたいし、それで収入を得られそうならチャレンジしてみたい」という欲望に素直になっていきなり始めたわけだし。
悟は、自分のものじゃない母親の影響(と、自分のものじゃない父親の影響も少し)を受けて、片親になったしそもそも夜は一人のことが多かった日々の中で、それでも、家族からの愛を頼りながら、しかし母のように外の世界と関わりまくる楽しさも求めて、それから、自分が健気でいることの意味の重みを理解して、しっかり生きていた。悟……悟ほんとによくできた子なんです…;;あかん今そんなんで泣いてる場合ちゃう…。まあその、よくグレなかった、という話。たぶん奇跡なんだと思う、家庭環境や周囲の人々の努力や協力という名の関わりがあってこその奇跡、悟がここまできらきらに生き生きと育ってくれたこと。まあ、確実に寂しさやなんやはあったけどね。ともかく、悟も悟で家庭があの状況であったにも関わらず(ここはタコピーの原罪の感想枠として強調しておきたいところ)、「ママの子供」であることや「パパの子供」であることや「じいちゃんの孫」であるだけや「何者でもないもの」であるだけの自分じゃいなかった。もしそうだったら悟は「もっと引っ込み思案でママにお家にいてほしいのに引き留めきれなくて一人で鬱々としてしまう子」になってたかもしれない。「自分はいつかパパと同じようなことをしてしまうかもと恐れて、他人も自分も信じられないまま成長した子」になってたかもしれない。「家業なのだから継がなくちゃと思って、頑なに、自分に厳しく、中学校卒業先の進路を畳屋での修行以外に考えない子」だったかもしれない。「父にも母にもまともに愛されない“誰でもよかった子供”なのだと自認して、自己肯定感の低いままぐずぐず生きるか死ぬかしていた子」だったかもしれない。三浦島悟はそうじゃなかった。「あなたのものでもあるし、誰のものでもない三浦島悟」として、愛いっぱいに、ほんと奇跡みたいに、頑張ってきらきらに生きていてくれてる。
悟パパも、悟ママ同様結婚する前から「自分は自分」だと思っていたのかもしれない。そこだけは似通っていたから、二人は通じ合ったのかも。彼は「悟の父親であるだけ」の自分を許さなかった。「悟ママの夫であるだけ」の自分を許さなかった。むしろ、そうなれなかった。そうなれなさすぎたのかも。だから、彼は…主に悟の目には、最初から最後まで一人の男としてそこにいた。だれのものでもないのだから、応える義務も無いだろうと。…それでも「あの女(悟ママ)の唯一の男でありたかった」というところの執着を手放しきれなかったから、それに応えてくれない悟ママや悟への当てつけみたいなことをしてしまったのかもしれないよね。
悟のじいちゃんは、妻が死んだ時から既に、「自分はこの人の夫であるだけの人間ではいけない」と思って生きてきたのかもな。それだけの人間だったら、妻の死と同時に彼もまた(物理的にか精神的にかはともかく)死んでたはずだから。きっとその意味では三浦島家でいちばん強くて歴の長い人。彼はもう彼一人だから、余計に畳屋の弟子を招こうともしなかった。あまり書くことないから書いてこなかったけど、悟ママが継ごうとしなかったら、あの畳屋は彼の代で閉店してました。でもって、「悟ママの父親であるだけの人間」でもなかった。たぶん、そうあってはならんと分かっていたのかもしれない。もしそうだったら、都会に出て行く悟ママのことを彼はきっと許さなかった。そもそも、彼の悟ママ子育て方針が「家業に縛られるな。やりたいことをやれ。」だったからね。(そう。えふゴウ悟のサーヴァントたちへの向かい方も、実は三浦島家の影響が強く出ていたものだったんです。) 悟のじいちゃんこそは、三浦島家における「きみのものじゃない」人間としてのレジェンドだった。
こんなふうに、実は三浦島家のテーマって、「きみだけのものじゃない」をまさにその通り射抜いたそれだったんだよな。だからすごくびっくりした。びっくりしたし、「あっ、私ってこのテーマを割と光属性側で描いてたんだ」とタコピーの原罪を読んで思った。「この人はきみだけのものじゃないから、きみだけを愛してくれるなんてわけじゃないんだよ?」みたいな、タコピーの原罪で描かれてたような描き方は、私してこなかった。そうよ、同じ三浦島家のことでも、そういうふうに描いていたらきっと悟や彼らのへの印象は大きく変わってた。ここで私は、自分の光属性を求める気持ちが本当に存在することを改めて感じてちょっとびっくりしたし、タコピーの原罪やそれを読んでいる人たちに対して「『きみだけのものじゃない』は、こんなに光的にも描くことができるんですよ、どうか『人間はみな誰のものでもない』という事実に絶望しないでください。」と言いたくなった。だから、この感想メモ枠取ってます。ぐぬぬ。それが言いたかった。ぐぬ。
言ってしまうと、確かに、しずかちゃんやまりなちゃんや東くんのような子供たちは、三浦島悟に無関係なものではなかった。事実そうです。彼だって学校で、十人十色な家庭環境で育ってきた子供たちと接してきたし、特に夜中の公園では、しずかちゃんやまりなちゃんのような子供とたくさん接してきたんだと思う。悟はね、夜中の公園でも、人一倍明るい子だったんだと思うよ。バカみたいに騒ぎはしない(バカみたいに騒いでないとやってられない系統の子も他にいたと思うし)けど、話してみると明るい言葉がたくさん出てくる、みたいな。簡単に笑うし、簡単に触れてくる子だったんだと思う。そういう子が、あの夜中の公園に集まることのできるしずかちゃんやまりなちゃんのような子供(もちろん、あの夜中の公園にすら逃げてこられない子供もいたのだろうからね)の目にどう映ったのかは、語りたいけど私には分からないことだよ。でも、夜中の公園に集まっていたしずかちゃんやまりなちゃんのような子供を、悟がどう見ていたのかは私が語れることかな。私は悟を描く人間なので。うーん、彼も夜中の公園に通ってた頃は(中3で概念悟を生み出した時期を含めて)幼かったから、できることが少ないことを彼だって気づいてただろうね。でも、自分がこの夜中の公園に「ここで癒せる事」を求めて訪れているように、「彼らもここでしか癒せないものをここで癒していけたらいいな」とは祈ってたと思うし、たぶんずかずか話しかけてたと思う笑 きみ誰、なんで夜中にこんなとこ来てるの、ボール持ってきたからサッカーしよ、とか。悟だって誰かを癒しに来たんじゃなくて、癒されに来てますからね。一緒に遊んでほしがるわけです。そんな悟の曰く光に、照らされた子がどんなことを思っていたのかは、私には分からないけど。彼らが苦労してることを悟は察してたよたぶん、そして、そんなこと言っても俺にできることをここで一緒に遊んでやることくらいだから遊ぼう!ていう付き合い方をしてたんじゃないかな。こういうとこが悟の、年相応のカリスマの低さだし、彼が平凡である理由だと思う。私は悟を無理に夜中の公園の救世主になんかしてやりませんよ。でもまあ、これは想像だけど、あの静かで寂しくて暗いことしかないような公園に、にっこにこで楽しそうにやってきては、一人でサッカーするのも誰かとサッカーするのも、ボールに座って誰かと話をするのも全て、楽しそうに面白そうに満喫してる悟の明るい姿に、救われた子は少しくらいはいたんじゃないだろうか。私がもしもしずかちゃんやまりなちゃんのような立場で、ここには夜中に家に居づらい子たちが集まってると知って夜中の公園に来ていたら、悟みたいな子を見て「いいなあ」と思うと思う。「すごいなあ」とも思うかも。まあ、その先でその感情が単なる好意になるか、いじめたくなる嫉みになるかは、その時の環境次第かもしれないけど。悟にもそういうことあったんだろうなあ。ちょっとは。ボール取られたりとかね。でもまあ悟自身が明るすぎるので、いじめようとしてもあまりに屈さなさそうで放置されてそう。しらねっ、て。そういうところの妙なカリスマ性はあるよね、悟。これも好かれやすさなのかしら。でもって、そんな子にふと話しかけられたりしたら私だったらどきどきしちゃうな。そんな感じで、夜中の公園で悟は誰かを救っていたかもしれない、救っていなかったかもしれない。分からない。なんでこの話になったんだっけ。ああそう、だから、私はタコピーの原罪を「三浦島悟と関係があった子や、彼の友達の中に、こういう子もいたかもしれない」と思って読んでいました、という話です。それで、だから尚更、「三浦島家ってほんとに光なんだァ……」になったよねって。まあこの話だって特例を描いてるのかもしれないけどね。私はその辺りの事情というか、実際「どれくらいの割合がこれほどひどくて、どれくらいの割合がかすかにひどいのか」なんて知りませんからね。でも少なくとも三浦島家は、光寄りだなあと思った。