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『女の園の星』×ロロ「いつ高シリーズ」──青春劇を脱構築し、無限に拡がる“想像力”を描く2作

男性と女性、先生と生徒、登校と不登校、中心と周縁など、学校という空間はあらゆる緊張的な二項対立を孕む場所であり、また、それを描くフィクションもその権力構造から抜け出せずにいた。しかし、2021年に作られる青春劇はその構造を解体する。マンガ『女の園の星』と演劇「いつ高シリーズ」がスケッチする青春の可能性を、希望的想像のもとでレビューする。

ポップカルチャーレビュー「笑いの二点透視」
「笑い」をテーマに、映画やドラマ、小説、マンガ、漫才、コント、演劇など、あらゆるポップカルチャーから厳選した2作品をレコメンド&レビュー。名画座の2本立て上映のように、共通する主題でふたつのコンテンツを並べることで、それぞれの「笑い」を立体的に紐解く連載。毎月1回程度更新。

“行間を読む”のが心地いいマンガ『女の園の星』

会話の始まりに、天気の話はなぜか重宝されている。

「今日は暑いですね」は、それが特別な出来事だから口にしたくなるのだろうか。それとも話題がないからか。「今日も地球は丸いですね」とか「この部屋めちゃくちゃ角ばってますね」とかはわざわざ言葉にしないものだ。身近にあって、ずっと変わり続けるものだから天気の話は役立つのかもしれない。ちなみに、ダイアンのラジオ『よなよな…』(ABCラジオ)はいつも天気の話から始まる。毎週、笑ってしまうほど新鮮なリズムで「今日は暑かったな〜」とふたりは言う。

話題に困る空間と天気の話の相関。言い換えれば、この世の中の“余白”と、それを埋めようとする精神との相互作用について。そんなどうでもいいことに思いを巡らせたくなるのは、『女の園の星』というマンガがおもしろすぎるからである。これは、日常のうちの取り止めのない余白が生む、愛おしい笑いで満たされている作品だ。

主人公はタイトルにもある“星”先生。生徒ではなく先生が主人公で、毎話、異なる生徒や先生に焦点を当て、星先生との関係性の中で極めて日常的な出来事が綴られていく。

ある授業中、隠れてマンガを描いている生徒を見つける星先生は、そのマンガの原稿の中に「し……死んでる……」というセリフを発見する。本当に死んでいるらしいキャラクター描写に、そんな不吉な言葉。それを見て心の内で驚愕する星先生。そうした気になる風景とキャラクターの(無)表情から“行間を読む”のが心地いい。描かれた余白から想像をふくらませる。そして埋められていく物語を読み進めて、思わず吹き出してしまう。

まなざしが錯綜する、ロロ「いつ高シリーズ」

『女の園の星』は群像劇であり、誰かひとりの生徒が回をまたいで特別に目立つということはない。先生と生徒の関係性も常に平等で、一定の距離感が保たれているのがわかる。そのことを作者の和山やま先生が特別に意識して描いているというのは、インタビューでも語られているとおりだ。

そうした形式と意識のもとで描かれているから、学校という空間が孕み得るあらゆる二項対立──中心/周縁によって形成されるスクールカースト、男性/女性、先生/生徒、先輩/後輩etc.──の堅苦しさからは自ずと解放されている。仮に現実がそう進んでいなくても、寓話を描くポップカルチャーが権力構造の解体を目指すことには必ず意味がある。

劇団ロロによる「いつ高シリーズ」はまた、そのことに今現在、最も意識的に取り組んでいる作品だと思う。演劇の正式タイトルは『いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校』。2015年に1作目が上演され、その後、連続ドラマのように話が連なりながら2021年7月に10作目が上演されてシリーズは幕を閉じた。

小沢健二の楽曲「愛し愛されて生きるのさ」の歌詞を包含したタイトルを持つこの演劇は、その名が示すように「誰もが誰か愛し愛されている」。彼女と別れたショックでいつも昼休みに校庭を爆走している生徒が登場する。その彼を、教室の窓越しでずっと見つめる生徒がいる。その子に自分の席を奪われてしまい、弁当を食べられずに困っている生徒がいる。その脇では、カーテンにくるまりながら誰かの噂話をしている生徒たちがいる。主人公はいない。生徒が点在し、お互いに「まなざし」を向け合うだけだ。

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いつ高シリーズvol.1『いつだって窓際であたしたち』(2015年)
撮影:三上ナツコ

好きなラジオの話から、“表と裏”の構造が解体される

「ラジオ」が重要なモチーフとなる関係性があるので特筆したい。2016年に上演された第2作『校舎、ナイトクルージング』でのこと。ここには、普段は引きこもりだけど、夜中に学校へ忍び込んではそこら中に仕掛けたテープレコーダーを回収してその音源を流すことで“昼の学校を追体験”する、「(逆)おとめ」というキャラクターが登場する。前述の昼休みの場面が、音だけで夜に再現される。

誰とでも分け隔てなく話すタイプの「将門」というキャラクターが、肝試しをしようと友達と一緒に夜の校舎にやってくるところが肝だ。そこでばったり出会ってしまう(逆)おとめと将門。「夜の1時過ぎてるからオールナイトニッポン聞かないと」みたいなことを将門が言うと、「私、JUNK派だから……」と(逆)おとめが返答する会話がある。念のため説明すると、『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)と『JUNK』(TBSラジオ)は、25時〜27時の同時間帯に放送されているラジオ番組である。

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いつ高シリーズvol.2『校舎、ナイトクルージング』(2016年)
撮影:三上ナツコ

ここに、昼の学校と夜の学校という対比と同じく、“表と裏”の関係が浮かび上がる。普段出会うはずのないふたりが夜の学校で出会い、ともに昼の学校を想像する。ラジオは、どちらかを聴いている身としては一方が裏番組ということになるが、それはただの主観の話だ。この空間にはもはや“裏”はなく、“表”だけが横並びに存在していることに気づく。表と裏、すなわち登校/不登校、昼/夜、人気者/日陰者のような二項対立の構造は解体され、ただただ愛おしいものとしてふたつはふたつのままに存在し、混じり合ったり飛び越えたりすれ違ったりしていく。

校舎結合

想像力が導く流動体の行方

『女の園の星』とロロ「いつ高シリーズ」は、“関係を構築しない”から特別であると思う。青春物語だからといって人と人を恋愛のようなお決まりのゴールに安易に向かわせはしない。刻々と変わっていくキャラクター同士のまなざしの行方を見守るのがひたすら楽しい作品であり、余白と想像力と可能性が充満している世界は観ていて清々しい。想像力によって無限に世界は拡がり続けて、青春劇が、はたまた青春が脱構築されていく。

要するにこの2作は、形の定まらない流動体なのだ。風でなびくカーテンであり、口ずさむ歌であり、漂う弁当の臭いであり、作者不明の短歌であり、打たれた球が描く放物線であり、答えが不確定な絵しりとりであり、先生のあだ名であり、思い出であり未来であり、あり得たかもしれない現実であり……。

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いつ高シリーズvol.10『とぶ』(2021年)/撮影:伊原正美

大学の先生に聞いた話だけれど、水や風といった流動体を数学的に解明しようとすると「ナビエ-ストークス方程式」という道具を使うことになるらしい。天気予報にも応用されている有名な方程式である一方で未だ解決されていない問題があって、それは100万ドルの懸賞金がかけられているほど難解なのだという。ナビエ-ストークス方程式が未解決だから、天気予報も100%当たることはないのだそうだ。

だから、流動体は定義が難しいということ。天気予報が当たりまくる日がいつか来るのかもしれないけれど、今はまだ「明日は晴れるかな」という想像力とともにある。自明のものではないから、ダイアンのふたりも毎週、その日の天気の話をフレッシュに繰り広げるのだろう。

だけど意思は言葉を変え
言葉は都市を変えてゆく
躍動する流動体 数学的 美的に炸裂する蜃気楼
彗星のように昇り 起きている君の部屋までも届く

──小沢健二「流動体について」より引用

誰かにまなざしを向けるあなたに思いを馳せたい。

卒アル

+α(流動体的に炸裂する多様な青春劇の形)
田島列島『子供はわかってあげない』
和山やま『夢中さ、きみに。』
イトイ圭『花と頬』
熊倉献『ブランクスペース』
横浜聡子『いとみち』
松本壮史『サマーフィルムにのって』

文=原 航平 イラスト=ナカムラミサキ 編集=田島太陽

原 航平
ライター/編集。1995年、兵庫県生まれ。RealSound、QuickJapan、bizSPA!、芸人雑誌、CHIRATTOなどの媒体で、映画やドラマ、お笑いの記事を執筆。Twitterはてなブログ

ナカムラミサキ
1995年生まれ。2017年に美術大学を卒業後、作家活動を開始。絵を描くときだけ両利き。頭が平な人間の絵が特徴。TwitterInstagram