懐かしい香りで思い出す。甘酸っぱいあの恋に戻る夜(村田倫子)
エッセイアンソロジー「Night Piece〜忘れられない一夜〜」
「忘れられない一夜」のエピソードを、毎回異なる芸能人がオムニバス形式でお届けするエッセイ連載。
村田倫子
ファッション雑誌をはじめ、WEBメディア・ラジオ・広告・ファッションショーへの出演など幅広く活動している。趣味であるカレー屋巡りのWEB連載『カレーときどき村田倫子』や食べログマガジン連載『呑み屋パトロール』では自らコラムの執筆も行い、ファッションだけに留まらず、その文才やライフスタイルも注目を集めている。また、商品コラボレーションも積極的に行っており、そのセンスを活かして人気商品を多数プロデュース。自身のブランド「idem」のディレクターを務める。
あの夜は雨が降っていて微かに金木犀の香りがした。
当時の私は20代前半で、まだ大人になりきれない頼りなさと好奇心とで、満たし方を知らない不安定で愉快な時期を精一杯生きていた。
好きなこと、胸がときめくもの、それらをひとつでも多く増やすことに必死で、苦しくて、楽しい日々だった。
その日は、仲のいい女友達とふたり、今では胃もたれしそうな甘いお酒を飲みながら、たわいもない話に花を咲かせていた。
仕事の話、美容の話、恋バナ……。
無意味で平和な時間。でも私はこの時間が大好きだ。好きな人と、おいしい食べ物と、お酒。これらは、日常の緊張感を解いてくれる。最高のリラクゼーション。
「あ、知り合いが呼んでるから行こう。倫子も行くよね?」
「うん」
時間だけがたっぷり残っていたあの時期。夜は深くて、長かった。
着いたのは、都内のカラオケボックス。
部屋には人があふれていた。知っている人もいれば、知らない人もいる。部屋の中はひどく騒がしい。
その場に彼がいた。
目と目が合って、お互いにすぐそらす。
別れてからは、特に会う理由も、連絡をする用もなく、顔を見るのは久々だった。
一方的な連絡で絶ってしまったその後、私は彼に合わせる顔もなく、少し気まずかった。
ちょっと離れた席に座り、お酒を頼んで軽快にタンバリンを叩く。夜のカラオケはそんな気まずさも薄めてくれるからありがたい。
みんな好きに跳ねたり、踊ったり、歌ったり、お酒を飲んだり。まだ長い夜を全身で感じて楽しんでいる。少し動物的な感じ。私も負けじとお酒を喉に流す。
気づくと彼が隣にいた。
「久しぶり、元気だった?」
気まずそうにはにかみながら、くしゃっと頭をかく。懐かしい声に思わず目が細くなる。
「元気だよ、そっちは?」
「仕事、順調そうでよかったね」
「髪伸びた?」
たわいもない話。
酔いが回ってきたのか、初めの緊張感はふわふわと溶けていく。
気づいたら肩が触れていた。
「あ、倫子の香りがする」
くんくんと首筋に顔を近づけて、懐かしいなぁ、なんて笑ってる。
彼の体温と、私の火照った身体。強くなる香水の香り。
忘れかけていた甘酸っぱい日々が、ぎゅんと巻き戻って、なぜかちょっぴり苦しかった。
彼と会うときは必ずつけていた香水。歳月はベルトコンベアのように流れていくけれど、記憶は香りとともにまだ全然生きていて、刻まれている。そして、それを頼りに戻ってくる。
この人は、いつもずるい。
それはルール違反だ。
もう少し、甘い小説の続きを読みたいような気がしたけれど、栞はとっくに捨ててしまっているし、私は今、違う物語で生きている。
気づくと、音は止んでいた。
窓からは少しずつ白々と光を取り戻す空が見え、部屋に明かりが差し込む。現実が徐々に輪郭を帯びてくる。
着実に終わりへ向かう夜。
“ありがとう、またね。
あのころは素直になれなくてごめんね”
まだ外は雨が降っていた。でも、空は明るかった。
ひとりタクシーに乗って自宅へ向かう。また終わって始まる1日。
君は知らない香りがしたなぁ。
文・撮影=村田倫子 編集=高橋千里