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爪跡と生活  - Life with Disaster - 大田原・蛇尾川篇

 栃木県の北西に連なる那須岳から緩やかに傾斜した扇状地・那須野ヶ原。「手にすくう水もなし」と詠われたその地は関東平野の北のどん突きにあたる。一般的な関東平野の地質とはかなり異なる特長を持った那須野ヶ原の、さらに東の端に大田原市は存在する。この街は高校時代の3年間を過ごした思い出の地でもあるのだ。
 大田原市は栃木県の北東に位置し、人口は約7万5千人。県北では那須塩原市に次ぐ規模である。歴史ある古い街で、市内には戦国時代に建築された大田原城の跡地があり、江戸時代までは城下町として栄えていた。そのため城址周辺では敵襲に備えるためにできた左右にくねった狭い道も多く、往時の面影を残している。

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 この大田原市にある特別養護老人ホーム「やすらぎの里・大田原」は周りを水田に囲まれた閑静な立地にある施設だ。その施設が2019年10月13日未明、近くを流れる蛇尾川の堤防が決壊し、周辺の道路を含め田畑・住宅がすべて水没したため、入所者約110名と常駐する職員6名が一時孤立した状態となった。

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 蛇尾川(さびがわ)は那須塩原市の大佐飛山地を源流とする2つの河川、大蛇尾川と小蛇尾川が合流して一つになった川だ。那須塩原市を南東へと流れ、大田原市に入り箒川へと合流する。
 地元を流れる川ということもあって、もう一つの河川・箒川と共に蛇尾川は特に思い入れの深い川だ。というのも、田舎の子どもの例にもれず夏などはよく川遊びをしたのだが、この蛇尾川の合流部には比較的豊かな水量があり、沢蟹や鰍などの自然の生き物がたくさんいて、ヤスで魚を獲ったり素潜りをしたりと、夏でも身を切るような怜悧な清流が地元の子どもたちの格好の遊び場となっていた。

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 蛇尾川は国内でも珍しい河川であり、それを説明するには予めいくつかの要素を念頭に入れておく必要がある。那須野ヶ原という扇状地の特殊性と伏流水という特性だ。
 蛇尾川は日本最大級の扇状地である那須野ヶ原の中央を走る河川だ。那須野ヶ原は北に関東第3位の大きさの那珂川、南に箒川が流れ、その二つの河川によって区切られた平坦な地形だ。扇状地であるため全体がなだらかに傾斜しており、地表から30cm~50cmより下は砂礫層となっている。
 この砂礫層が表層を流れる水を吸い込んでしまうため、蛇尾川は普段は水が流れない水無川である。砂礫層の下に水流が潜り、砂礫層が終わると再び地表に水流が現れる。こういった河川を伏流水と呼ぶ。
 伏流水の河川は冬場は特に水が流れず、川底にあたる部分は砂礫・石礫が剥き出しになるばかりだ。この光景に馴染みがない地元以外の方が見ると奇異に映る光景である。川岸には土手が築かれ、至る所に橋も架かっているが、川底には水がない。もしくはあってもごく少量だ。

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 蛇尾川はこの伏流水の状態が上流の合流した箇所から箒川へと流れ込むまで数十kmにわたり続く。夏場の雨の多い時期を除きほとんどの流域では水流が見られないが、大雨時には別だ。砂礫に吸収しきれない大量の水は激流となって流れ下ることもあり、過去には幾度かの洪水も起きている。
 そして昨年の台風19号の大雨によって、通常は水無川である蛇尾川の水量は大きく増大し、ついに10月13日午前2時半ごろ、大田原市北大和久にて大規模な氾濫を引き起こした。堤防は約200mにわたって決壊し、浸水域は河川の左岸を中心に南北に2kmほど。被害に遭った農地はのべにして約80ヘクタールもの広さになった。

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 この箇所を歩いてみるとわかるが、県内の台風19号の被害の中でも、決壊した堤防の規模は最大級だ。破壊された堤防はお世辞にも最新式とは言えず、土でできた法面に川岸側の護岸は石積みでできている箇所も多い。決壊地点は北から南にかけて大きく右にカーブしており、勢いを増した濁流が堤防に強くぶつかったことを想像させる。

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 川の東側の水田に迸った泥流が「やすらぎの里」を含む一帯を文字通り水没させた。大田原市全体の住宅被害は一部損壊・床上床下浸水などを合わせて43棟。少し後の統計になるが、1名の重傷者も発生している。
 取材当時はそこに多数のフレコンバッグに詰められた土嚢が配置され、川の流れを一時的に変える「瀬変え」が行われて、仮設工事を行う準備が着々と整いつつあった。土嚢の向こうには「やすらぎの里」の建物が見える。こうして見ると、決壊箇所からごく近いことがうかがえる。

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 激流の破壊力を物語るように取水口の水門が無惨な形となって残っていた。蛇尾川の河川インフラは県内の他の河川と比較してもかなり古く、破壊されたコンクリートも長い年月が経ったであろうと見受けられる巣の割合が多いものだ。普段は水無川なので、最外部にまで負荷がかかる水量になることは近年まずなかった。
 さくら市喜連川にある「連城橋」にも言えることだが自治体の予算は限られており、任期が限られる政治家にとってこういった「目先の被害が見えにくい公共土木建築」はどうしても施策が後回しになりやすい。
 剥がれた護岸部分や壊れた土管などを見ると、古い材質のコンクリートでできていることがわかる。巨額の工事費用がかかる治水事業は、右肩下がりで人口が流出している自治体において敬遠されやすい予算の使い道なのかもしれない。

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 かつての那須野ヶ原は土地の広さこそあるものの、その治水の悪さで開墾不可能な土地と言われてきた。北にある那珂川などから水を引こうにも、砂礫層である土壌にどんどん吸われてしまい、水田まで至らない。那須野ヶ原は関東平野という良地にありながら不毛の地として、近世まで永らく手つかずの地となっていたのだ。
 それが明治時代に入ると政府の殖産興業政策により、日本三大疎水の一つ、那須疎水が三島通庸などの尽力によって1885年(明治18年)に開削。那珂川上流域から導水されて用水の目途が立ち、開拓が進んでいった。
 現在では那須野ヶ原一帯の農業生産能力は、酪農・米産では県内一の生産高を誇っている。

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 川底の写真を見ると、その砂礫層の一端がうかがえる。通常の河川よりも丸石などの割合が多く、それらがフィルターと同じ効果を伴って、地表下に水を浸透させてしまうのだ。
 用水路に溢れた土砂も、他の地域で見られるよりも明らかに石礫が多い。これらを除去するには重機の力を借りるしかなく、かなりの手間がかかる。残念ながらこの一帯の本年度(2020年)の稲作は見送られることになった。

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 決壊には至らなかった箇所でも溢水などによる地盤の緩みなどは起きていて、北大和久から少し上流にある宇田川橋は長く通行止めになっていた。被災後、開通したのは今年の3月になってからである。ほぼ半年にわたって車両通行止めとなり、補強工事が行われていた。
 蛇尾川は決壊規模も最大級だったので、工事日程にも余裕がなく、県内河川としては最初に国の災害査定が行われ、2020年1月22日に国土交通省の査察官が訪れた。蛇尾川は水無川と言えど6月の梅雨時期になれば水量も増える。一刻も早い復旧が必要との判断から、被害の大きかった他の河川に先駆けて査定が行われた。

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 こういった尽力によって蛇尾川の復旧工事は順調に進み、決壊箇所及び宇田川橋周辺は日常を取り戻したかに見える。しかし前述したように決壊箇所周辺の農地はいまだ作付の目途が立たず、また他の老朽化した堤防が、今回と同じ規模のスーパー台風の来襲に耐えられるのか予断を許さない状況だ。水無川である蛇尾川も、いざとなれば牙を剥くことが我々の脳裏にしっかりと刻まれた。
 那須疎水の開削にまつわる話は、地元の小学生であれば必ず学習する内容である。治水・利水は農業の、ひいては国の根幹だ。明治政府にできたのなら、今の我々にもきっとできる事だろう。

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 余談だが、「やすらぎの里」の入居者たちは被災後、地域住民と合同で炊き出し訓練を行った。今回の罹災時に孤立した同施設であるが、逆に言えばやや高台になっている施設は付近住民の避難先として受け入れが可能なはずである。
 2019年11月24日、北大和久自治会のメンバー約30名が参加し、お湯を沸かしてレトルトカレーなどのインスタント食品を温めたりして、入居者の分を含む85食を用意した。一方的に助けを待つというだけではなく、いざというときに地域内で助け合えるという貴重な経験を域内の住民と分かち合った。

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