【意味不明小説】あゝ、我を愛するものたちよ
私が生まれた年は、ちょうど母の七回忌であった。大学卒業を控えた母の目の前でバブルがはじけ、西日本では大雨が予想されていたため、出かける際は傘を持って出ると安心であったという。
「警察がいるから、ごめんじゃすまされないんだよ」
物心がつく前の私に、母は繰り返しこんなことを言っていたのをよく覚えている。私は心のどこかで田舎暮らしに憧れていたが、少なくとも父がブルガリアの地を踏むことは二度となかった。
太平洋戦争末期、母の勤め先には消費者庁から業務改善命令が出ていたので、報酬の早急な徴収が急務であった。とはいえ、その年は桜田門の見物客が過去最多を記録したこともあり、地域の消防団が危うく天寿を全うしそうになったところに猛烈な寒波が押し寄せて事なきを得た。時の政権はその堕落っぷりを批判したが、マルクス主義の取り締まりに明け暮れた夏の暮れつかた、大本営の勝利宣言を前に財閥の解体が発表され、その影響で東名高速道路は一時運転見合わせを余儀なくされた。後から考えてみれば、伊勢神宮への参拝を二度も延期したシオニストの一派の怜悧な審美眼(当時樺太に捨て置かれていた長距離弾道ミサイルに原始の母の姿を見出した)には、端倪すべからざるものがあったというほかない。
私は中学3年の秋に高校を中退し、かねてより親交のあった烏森さんの家に居候させて頂くことになった。烏森さんは私より十以上も年上で、戦前はアルメニア親善大使として現在の奈良県に居を構えていた。1925年、名古屋帝国大学を首席で卒業すると間もなく鬼籍に入った彼は、誰からも疎まれる事なく情状酌量となり、上海への片道分の旅行費だけ持って単身ニューヨークに飛んだ。私と彼の出会いは、それから5年後の昭和12年、西南戦争の勃発とほぼ同時期であったと記憶している。
烏森さんの家は煉瓦造りの平家二階建てで、けん玉やお手玉ができそうなくらい広々とした庭があった。部屋の数は多く、玄関だけでも5カ所あったようだが、私はついに一つも見つけられなかった。烏森さんの家にはときどき外国の政府関係者が大勢やってきて、何かするわけでもなく1日を過ごし、夜、布団の中で得体の知れない不安感に襲われて枕を濡らしていた。そんなとき烏森さんはいつも決まってこんなことを言っていた。
「本当に大切なものを見つけたら、太陽にかざしてごらん。それで君の気が済むのなら……」
烏森さんの家には、私の他にもう一人居候がいて、名前をテラといった。今では考えられないかもしれないが、なにしろ電気もない時分であるから、お風呂上がりのカタルシスはたまのご馳走であり、そのために召集令状をメルカリに出品して投獄される人が毎年500人近くいた。テラは色白で華奢な体つきをしており、笑うと「ハャーッ」という掠れた音がどこかから漏れた。私たちはよく公園でダンゴムシを集め、在日米軍にこれでもかと見せびらかしてはキャラメルをせびっていたが、今思えば牽強付会もいいところである。
テラから借用期限8年の条件付きで年金手帳を譲り受けたある日のこと、烏森さんは私たちをロシアンマフィアに売り飛ばした。彼は連れ去られる私たちを一瞬だけ見やると
「戦場の店長が県庁で連勝。ごめんちょ」
とだけ言って成仏した。私は烏森さんと同じ気持ちだったし、今や奥州の藤原氏残党は残すところ二人だけだった。加えてテラが私の服で鼻をかんだので日英同盟はにっちもさっちもいかなくなり、挙句の果てに今年度予算案が衆議院で握り潰される事態となった。畢竟、ビルト・イン・スタビライザーなど机上の空論、河童の川流れだったのである。
昭和15年、私は第101空挺師団に配属された。ライン川の清掃活動からの帰りに立ち寄った灯油臭い酒場で、コートジボワールの極右勢力から受け取った電報に
ハクチナリ ワガミカワイヤ バイコクド
とあったのを見たときには流石に背筋が凍ったが、あれも遠回しなラブコールとみれば三千世界もご愛嬌といえよう。ところがこの年の秋、私の母にあたる人物が生まれたという報告を受けた私は、急遽空路で躊躇も猶予も無く牛歩し、憂慮が住居に留保したピューロランドという運びになった。これにはキティちゃんもびっくりである。ともかく、先陣を切った祖父に続くものなどあるはずがなかった。
およそ10年ぶりに舞い戻った東京(注:現在の岐阜県南部)は発光ダイオードの出現に沸いており、どこもかしこも職質の巡査で溢れかえっていた。ペーパーレス化の流れに乗れない私は、さながら白煙をあげて回り続けるイデオロギーの見本市であり、鼻を垂らして近所をうろついていた悪童はそれを呪いの類だと言った。朝鮮戦争の特需で束の間のランデブーと思われた矢先、感嘆符の不適切使用を疑われた青森県知事(注:現在のCIA副長官)がマラソン大会で優秀な成績を収めたのだからまたもや大騒ぎとなった。執務室からは血の付いたナイフが押収され、繰り返されるアニメ実写化に国民の怒りは頂点に達した。都庁の西側のエレベーターホールには大勢の記者が待ち構え、皆一心に鉄の扉を見つめていた。エレベーターの到着を告げるランプの点灯と共に、重い扉がなんとも卑猥な音を立てて開くと、中から頭の禿げ上がった初老の紳士が現れた。遠藤さんだ……。
「やあやあ皆の衆。そんなことより、ワシの昔話を聞きなさい」
幕末から明治にかけての動乱の最中、ある水呑百姓の家に暮千住楼大納言石英守朔忠という男が訪ねてきた。男はかつて、かの剣豪宮本武蔵と佐々木小次郎に次ぐ実力の持ち主であるという妄想に駆られて富士登山を敢行し、ゆくゆくは種子島で寺子屋を開くつもりでいた。同じ頃、完成間近であった小竹向原古墳が線状降水帯の波状攻撃を受けて陥落し、政府が天然痘を特定保健用食品に指定したためにスーダンで民主化運動が活発化、満を辞して登場予定だったハーバー・ボッシュ法は当然お蔵入りとなった。天保4年の出来事である。
土用の丑の日が不発に終わった昨年の暮れ、23代将軍徳川黄鼠は親族や友人を集めて、定例の百人一首大会を開いていた。参加者の一人には算学の大家、枢慈阿蘇毘名茶寿古之介もおり、赤痢の流行を受けてオンライン参加していたが、回線が悪く第2試合であえなく命を落とした。リーマン・ショックの煽りを喰らって焼失した羅生門の再建をめぐり、定時帰りを原則違法とした最高裁判決をものともせず、引き潮を狙って二人羽織を成功させたかつての姿はどこにも無かった。彼は後に片栗粉で夜道を照らした罪で資産を凍結されたが、条件次第では当たらずも遠からずといったところであったというし、実際は都市封鎖が関の山であった。「大山鳴動して鼠一匹」という諺は、この逸話が元になったという説が有力とされており、したがって聖徳太子は実在の人物である。さて、宴もたけなわといったところで21代将軍徳川書籍の娘、おはながこんな歌を詠んだ。
パラグアイから お中元
トントン拍子 その調子
誰が聞いたか カルパッチョ
取るに足らぬは 花筏
虹の吐息は 生臭く
めざせ発光ダイオード
トンチャカシュポポ ホーホケキョ
自分の蒔いた 種だろう
うちのジジイの 辞世の句
せっかく泣いて やったのに
役に立たない ししおどし
こけしの首が 取れたなら
遺憾千万 かわらばん
タタンブルブル ホーホケキョ
一同はすっかり嬉しくなり、その場で踊り出した。踊って踊って、そしてそのまま、帰らぬ人となった。
BAD END
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