【意味不明小説】舞妓さんの太鼓判が足りとらん
トマトに含まれるリコピンは、分子生物学上、青酸化合物に分類されるのが妥当であり、従ってトマトは猛毒である、という主張を情報通信学会で発表し、総スカンを喰らったことで有名な私の恩師、関口教授の訃報に接したのは今回が3度目である。
教授は元来厨2病を患っていたが、6年前に5月病を併発し、3度の手術を受けて9死に1生を得たのも束の間、突如40度の発熱をして78歳でこの世を去った。
葬式には、教授の旧友であるジェンツーペンギン3羽の他、漫画家を志望してドラえもんのパチモンを自費出版し投獄された東西南北氏や、白粉の代わりに小麦を塗りたくり続けた末に粉塵爆発を起こした参議院議員、玄武岩拳固女史が参列していた。当時日本では水素水工場の爆発事故により一世代あたり3枚の大漁旗を掲揚することが努力義務とされていたが、恩師のポリシーに従って国民年金を滞納していた私にとって、回旋塔に跨る子どもの絵はがきなどセンシティブ以外の何物でもなかった。それゆえに私は焼香を済ませると、教授の遺言通り、教授の遺体が収められた棺の中に手製のプラスチック爆弾を投げ込んで一目散にその場を後にした。私は込み上げてくる笑いを必死に噛み殺してひたすら走った。そして、家の近所の面識のないおばさんの家に上がり込んだ強盗によく似た顔立ちの店主が営んでいると噂のレンタルビデオ屋のアンテナ修理を請け負ってバックれた業者に業務改善命令を出した皮と骨だけの爺さんが飼っていたナポレオンフィッシュをフリーマーケットで売り飛ばしたミャンマー人の行きつけと思われていたが勘違いだった居酒屋に立ち寄った。そこで偶然にも、私は恩師である関口教授と邂逅遭遇した。私たちは再会を喜び合い、酒を飲みながらつもる話に花を咲かせた。すっかり上機嫌になった頃、そこが居酒屋ではなくバビロニア大使館であることに気がついてまた腹が捩れるほど笑った。
「日本もまだまだ捨てたものではないな」
教授はそう呟くとウインクをして見せた。私はその気色悪さに盛大に吐き、中国軍の艦砲射撃を喰らって粉々になった。
それから2ヶ月後、関口教授も私の後を追うように亡くなった。教授の娘が教授の散らかった部屋を片付けていると、私と教授が写った古い写真を見つけた。
「パパと写ってるコイツ誰よ!?!!絶対見つけ出して八つ裂きにしてやるんだから!」
娘が歯を剥き出し、顔を真っ赤にしているところに、母親がやってきて慰めた。
「落ち着いて。それ以上怒ったら鼻くそ付けるわよ」
「母さんの言う通りだ。父さんからは耳くそをやろう」
関口教授も娘を宥めた。しかし娘の怒りは収まらず、結局自衛隊が出動する事態となった。関口教授が「地球球体説」に辿り着いたのはこのときであったが、直後に彼はロシア軍の機銃掃射で蜂の巣になったため、この世紀の学説が日の目を見ることはなく、それゆえ現在も地球は平面のままである。そもそも官房長官が上官の妙案に共感して量産した賞賛に驚嘆したのが全ての始まりであり、そこに古き良き日本の原風景など望むべくもなく、大仙古墳縦断鉄道の開通まで秒読みの段階で首相のすることが賭け麻雀ときているのだから、再生可能エネルギー主力電源化など夢想家の戯言であるという総括は一定の支持を得て然るべきであろう。とはいえ、皇太子の唐揚げに無断でレモンを搾って依願退職した経歴のある関口教授は、晩年にふるさと納税を使ってスペインに飛び、到着早々風邪をこじらせて「これがホントのスペイン風邪」などと言いながら亡くなったというのだから、かのエジソンなど足元にも及ばないのは確かである。ケインズの夢見た自由経済は日付変更線の向こうに露と消えた。
あるとき、バヌアツ史の講義で教鞭をとっていた関口教授は、急性のものもらいを発症して倒れ、救急車の到着を待たずに息を引き取った。講義の受講者は一人残らず重度の創価学会狂信者であり、支那の風とテラヘルツ鉱石の共振からエーテル波を取り出すのに夢中であったという。その異常な熱意たるや、軽井沢への片道切符があればふくらはぎで焼肉も喰えるともっぱらの噂であった。私が復讐を決意したのは言うまでもないが、いくつか問題があった。復讐といえば異世界に転生してチート能力を得るか、元最強軍人や伝説の殺し屋を師と仰ぐか、あるいはタイムリープするものと相場が決まっている。だがトラックに撥ねられるのは御免だし、元軍人や殺し屋の知り合いからは絶縁されているし、デロリアンも先日もみ洗いに失敗してお釈迦にしてしまった。ひとしきり思案に暮れた挙句、ある男の家を訪ねることにした。東海道新幹線に揺られること5時間、ウラジオストックで乗り換えてタクシーで内舎人駅へ向かい、そこから山手線で回ること3時間、神田で降りて複式呼吸を5回すると、ネオンカラーで「SDGsハ志半バニシテ東亜細亜ヲ壊滅セント欲ス」と書かれた変な匂いの暖簾をくぐって二八蕎麦を啜った翌日、私は実家の斜向かいにある家の門の前に立った。一瞬躊躇ったが、意を決してインターホンを鳴らすと、しばらくして玄関の古い木戸がなんとも卑猥な音を立てて開き、中から頭の禿げ上がった初老の紳士が現れた。遠藤さんだ……。
「これはこれはお嬢さん。まずはワシの昔話を聞きなさい」
藤原道長が栄華を極めていた時代、増長する藤原氏一族に対抗するため、朝廷により数万機のガンダムが造られたのは万民の知るところであるが、同時期に全国各地で脱毛サロンが乱立したことはあまり知られていない史実である。「ケツ毛抜き 頭に植えりゃ 大団円」の川柳は、当時の風潮をせせら笑った紫式部による痛烈なボディブローとして有名であるし、日本プロレタリアート労働連合アソシエーション組合協会の創始者として知られる清少納言でさえ、一度に頬張れるたくあんは5枚が限度であったという。
さて平安時代末期、時の首相の「平家マジ尊すぎて死ねる清盛しか勝たん」発言に賛否が渦巻く最中、不自然に絡まった太平洋ベルトの処分に腐心していた牛若丸は、あろうことかまんまと弁慶に討ち取られ、翌朝のサンケイスポーツの1面を飾った。後に「貞元の大増税」として知られる消費税380%への引き上げを目前にビニール傘の爆発的な流行でタロイモの生産が追いつかなくなり、結果的に日本の命運は喫煙者の敵基地攻撃能力に委ねられたのであった。
とある日、築84年のボロアパートで日がな一日空を眺めて過ごしていた織田信長(本名羽柴秀吉、後の徳川家康)は、先日オランダから輸入したばかりのビームライフルで延暦寺を焼いて大目玉を喰らったばかりであったこともあり、鼻の穴に印鑑を抜き差しして遊んでいた。
「たとへば生涯に一度の暦の入れ替へすらも、邪を祓いて長き夜に終止符を打たんともしがたく、あるいは独善に酔ひて足繁く通ひぬ出雲の里に、燦然と煌めく道祖神さへ垂涎ものならざるがごとく、畢竟小心翼々たる京都人こそ汚泥を泳ぎて牛舎をこしらえることだなあ」
腐りかけの畳に寝転がりながら信長は呟いた。ふと、何の気なしにスマホを手にとり、耳にあてがうと、不思議なことにとっくに充電の切れたスマホのスピーカーから微かに歌が聞こえてきた。
勝った負けたの 培養器
待った甲斐なし 反抗期
クマの人形 プレゼント
抱いた感触 ツキヨタケ
豚の甘露煮 たいらげて
ぼくの名前は 握りっ屁
ブンツカブンブン ホーホケキョ
あの手この手で 手に入れた
余弦定理と 盗難車
無礼千万 ご愛嬌
蝶よ花よの ご開帳
墓の下から こんにちは
さらば人民共和国
ルケケムロモチョ ホーホケキョ
信長はすっかり嬉しくなり、その場で踊り出した。踊って踊って、そしてそのまま、帰らぬ人となった。
BAD END