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“聴く”は、誰のしごとなのか。

かれこれ10年くらい、ずっと頭の片隅にあること。

“聴く”は、誰のしごとなのか。

人と会話をしたいために、話す理由をつくる

社会人になって、こどもをもつ友人が増え、よく会いに行く。
いろんな友人から、こんな声を聞く。

「来てくれてありがとう、5日ぶりにまともにオトナとしゃべったよ。」
「こども(1歳)には話しかけはしてるけど、もちろん会話にならないでしょ?一方的に話すばかり。会話がしたくて。」
「ダンナ忙しくて、話す時間も余裕もないから…。」
「こないだあまりにもつらくて、ダイエーの店員さんに“これありますか?”ってモノ探すふりして話しかけてん。」


そういえば、昔勤めている会社のコールセンターにも、「話したいから」という理由で苦情の電話をかけてくる人が一定数いると聞いたことがある。

問い合わせから始まり、次々に苦情を持ち出してくるが、それは文句を言いたいのではなく、電話を切ってほしくないだけ、ということも多いのだそうだ。
消費者金融出身の苦情担当者は、「会話がしたいゆえに、つなぎとめる用事をつくっているだけの人。ここ数年で一気に増えた感がある。」と言っていた。

社会に余裕がない

話したい人の切実な気持ちも、理解できる。(いや本当は私なんかが理解できないほど、追い詰められているのかもしれない。)

また、スーパーの店員さんや、コールセンターのオペレーターさんの焦りも、想像できる。
スーパーの店員さんは品出し中かもしれないし、レジに呼ばれていたかもしれない。コールセンターのオペレーターさんは、一日のノルマもあるだろうし、あぁーーいま待ち呼(まちこ:お待たせしているお客様の人数)100!!やばい!とか追い詰められているところかもしれない。

効率化を求める昨今の職場で、自分や自分の職場に“本来”用事のない=お金を支払わない人の話に耳を傾ける時間なんて、正直ないのではないか。
傾けたい気持ちはあるんです、ただその前に自分の首が飛ぶかもしれない。
私も、自分の課やチームの成績管理をしていたときは、とにかく「余計な仕事」をやらないで件数に注力してくれ、またあなたの生産性が議題にあがってしまうから…!って思ってたもんなぁ。(今なら別のことを考えられるのだけれども。)

昔は近所の人だったり、お嫁さんやお舅さん、喫茶店のマスターなんかが「聴く」ことを無償でしてくれていたのだろう。ちょっとずつ。
「しごと」だなんてことはなくて、「当たり前の暮らしの一コマ」だったのかもしれない。

今はみんな自分のことで忙しい。社会に余裕がない。
「無駄」は切り捨てられる。

「聴く」場所をつくりたい

“聴く”は、誰のしごとなのか。
本当に、ずっと、考えている。
特に、東京に帰ってきて、より強く思う。

核家族が多い都市で、聴き合える場所をつくりたい。

本があって、
話さなくても良くて、
話したい時にはしっかり聴いてもらえる場所。

わたしは今本を販売したりもしているけれど、そういう場所をつくるためには、“本を売ること以外で”その場を成り立たせる方法を考えなければいけない。

歩きながら、考える。

本日の一冊

わたしたちがいま失いかけているのは「話しあい」などではなくて「黙りあい」なのではないか。かつて寺山修司はそう問うた。
『「聴く」ことの力』(鷲田清一/ちくま学芸文庫)

※写真は、都内のUR団地。ここでも、話しかけられることがよくあった。
※これは、2017年7月の下書きをUPしたものです。