
ルーズで自由な国だった
入国までがほんとうに長かった、外国人用の入国審査に並んでいた時、周りからはスペイン語しか聞こえないし、スペインっぽい顔立ちの人が多いので、私は間違えたのかと不安になっていた。いとこに連絡して写真を送ると、多分合ってるけど…みたいなニュアンスだったので、ますます、ドキドキする。
後ろの人に、「このラインはチリ人用?私は日本人なんだけど」ときくと、「たぶん大丈夫」と言われた。きっとこの人はチリ人だけど大丈夫なのだろうか。
少しすると、スタッフが来て、なにかスペイン語で叫んでいる。
一斉に大勢の人々が立ち退き、少し離れた税関の方へ去っていった。
え、わたしも行くべき、?あれ?っと焦っていると、「君は?」と話しかけてきたので、「I'm from Japan!」と言うと、君はここでいいと言われた。待てよ。大勢のチリ人がみんなで間違えていたのか。なんかめちゃくちゃ可愛い。
空港を出るのにかなり時間がかかったが、無事に外へ出る。お出迎えに来てくれた従兄弟と伯父が暖かく私を迎えた。
スタバに寄ってから車に乗る。治安が悪いと言われたが、あまりそうは感じない街並みだった。
スペイン語は早すぎて何を話してるのか全く聞き取れない。でも遅くても聞き取れない。
その足で直ぐに父のいる家へ向かった。
従兄弟には、「強い薬が効いているから、目覚めないかもしれない。覚悟して」と言われていたので、私の目標は、20年振りに父に触れること。ただそれだけだった。
マンションに入り、ドアを開けると腹違いの兄、姉が出迎えてくれて、強く抱き締められる。「ずっと会いたかった、私の愛しい妹」と言われて、涙が溢れそうだった。兄も「可愛い!俺の妹!」と喜んでいる。腹違いとか、そういうのに囚われていない彼らに信頼みたいな感情が湧く。嘘でもそう言ってくれて嬉しい。日本じゃそうはいかないと思う。だから愛に溢れた人達だと思った。
奥の部屋に案内された。
ベッドに横たわり、気持ちよさそうに眠る父がいた。
あんなにガタイの良かった身体は痩せ細り、綺麗で端正な顔立ちはシワの奥に潜んでいる。
姿を見た瞬間に、私は膝から崩れ落ち、声にならず咽び泣いた。
「パパ」と呼んでも目覚めないけれど、私は何度も呼んで手を握って触れた。
後悔と、今まで何度も夢見た対面がこんな形だなんて寂しくて、心臓が押しつぶされそうだった。こんなの辛すぎる。夢であって欲しいし、心の底から、自分と代わって欲しいと思った。
自分が死んだ方がマシだと。本気で思った。
少しすると、薄らと目を開ける父。
みんなが驚いて、「ほら!起きたよ!」と私の肩を叩く。
「○○ちゃん、」
そう微かに聞こえた。日本語で呟いた。
その後なにかスペイン語を話していたが、全く聞き取れない。
みんなが、わっと喜んで声を上げる。
私も涙が溢れて、一生この瞬間を忘れまいと見つめた。父は、すぐに力尽きて寝てしまったが、私が来ていることを認識したのは確か。
そして、スペイン語では「やばい、可愛いすぎる」
とまで言ってくれてたらしい。
その日は、チリの実家のような家に帰ることになり、父とはしばしの別れをした。
帰ると、伯母と伯父と従兄弟が夜ご飯や、お酒を振舞ってくれて、寂しさに寄り添ってくれるように沢山話をした。
ところで、ご飯はかなり量が多い。
そして基本肉だ。もうええて。と思うほど肉だ。
そして、レモンとアボカドが至るところにいる。チリ人はレモンとアボカドが必須のようだ。
食べきれない量を必死に頬張る私に、伯母が、「元々多くしてるんダヨ!食べきらなくてイイノ!」のカタコトの可愛らしい日本語で言う。
チリ人は遠慮をしない!家族には甘える!だからあなたもしない!と怒られた。
残すと、軽く頭にキスをされた。それでいいのよと微笑まれた。
日本では、小さい頃から、残すな!食べきらないと駄目だ!みたいな風習なのか、ルールみたいなのがある気がする。
給食を、食べ切るまで後ろの方で食べてたな…とか思い出す。友人の家に行った時とか、外食した時だって、作ってくれた人のことを考えなさい。食べ物を粗末にしない。みたいなのがある。
チリ人と一括りにするのはあれだが、少なくとも私のチリの家族は、建前とかそういうのではなく、『自由にして』『好きにしていいよ』とよく口にする。そして誰も私に遠慮をしない。だからだろうか、凄く気を使わずに過ごせて楽だった。そしてみんな優しい。気を遣う優しいでは無く、うーん。
説明が難しいが、愛してるからこその本当に純粋な優しさだと分かる。
2日目。
少し遅く起きたが、誰も起きて居ないようだった。なので私も二度寝をしに戻るが、泣き疲れて気絶するように寝たので、ストレスで全然寝れない。
少しするとバタバタと伯母が起きてきて朝ごはんの準備をしてくれた。
クレープと、ハムとチーズ、ミルクティー、アボカド。
頬張りながらこれからの事を考える。
今日から、父は強い薬の投与が始まったらしく、起こしてはいけない。
痛くならないよう眠ってもらうのがいいと言う。
私は、どうしても、痛くてもいいから起きてて欲しいと思ってしまう。
皆が、苦しまないで欲しいからいっそ、、というのを聞く。頭ではそうだ、と分かっていても、苦しみながらでもいいから生きていて欲しい。どんなに苦しくても辛くても呼吸だけは止めないで欲しいと。
どうにか、この20年を埋められる、思い出が私は欲しかった。
本当は大きな胸に抱きついて、しつこい頬のチューを避けながら、出迎えしてもらうことを何度も想像した。
それが叶わぬと日本で知った時の絶望と言えば、一度心が死んだように、真っ暗な闇の中に落とされた気分だった。
とりあえず、食べ終わってから少しゆっくりしてすぐ行くのかと思いきや、皆シャワーを浴びたり、支度がやけに遅かったり、なんかプール入ろうとしてみるとか。自由すぎるではないか。と突っ込んでしまいたくなる人々だった。
まてどくらせど、一向に進まない。3、4時間後やっと出発した。
チリの道路は、整備されていないのかと思うほどでこぼこだ。高速道路以外は、がったがった揺れる。
私は三半規管が弱いので、もうやばい。寸前のところでめちゃくちゃ我慢していた。というかほぼ吐いていたのではないかと思うほどギリギリだった。
ところがどっこい。整備されていないのではなく、スピードを出させない為らしい。
自由気ままなチリ人は、とにかくスピードを出しすぎてしまうようで、わざと道をでこぼこにしているそうだ。
お願いだから皆、安全運転宜しく頼む。
2回目の父とのご対面。
すやすやと眠る父の額に優しくキスをする。
何度も肌を触り、忘れぬよう必死に見つめた。
途中でお昼を食べて、ゆっくりしていると、親戚の姪がバタバタ駆け寄ってきて、「じいじ!」と叫ぶ。父が起きたようだった。
向かうと、目をぱっちりあけた父がいて、私をしっかりと捉える。
涙があふれると同時に、震えながら上げた両手が私の頬を包んだ。
優しく私の頭を顔に持っていき、頬にキスを何度もしてくれる。
父の、「忘れないで」が耳元で響いた。
忘れたことなんてない。
ずっと大好きだったよ。
これからもだよ。
そう泣きながら、父の胸に顔を埋めた。
何度も、また頭を誘導して私の頬を撫でてキスしてくれる。
これが幸せだと、分かりながら、この瞬間を手放したくなくて、一生懸命、パパの手を握る。
父は、急に立ち上がると言って聞かなくなり、みんなを巻き込んで立ち上がった。
そんなことは絶対に出来ないはずなのに、支えられながら立ち上がった。
ほらこい。と立ち上がった状態で私を抱きしめた。
全員が泣いてしまうほど、これは奇跡と言えるもので、きっと父の意地であったと思う。
全身蝕まれて、痛くてたまらないはずなのに、
私を抱きしめるために立ち上がった。
その後は薬が切れたのか、痛みによって唸り始め、疲れた様子だったので、また薬を投与して、眠らせた。
お願い居なくならないで、
ずっと、一緒にいてよ、
聞こえ無いことなど分かっていても、言葉にしないと私の心臓こそ潰れてしまいそうだった。
苦手な車も、初めての33時間1人でフライトを飛んだのも、全部パパのため。パパに会うために動けたこと。
明日また触れて、キスしたいなと。思いながらその日は帰った。
よくよく話を聞くと、腹違いの兄が、「眠ったままなんて!悔しい!」と起こしてしまったようで、今の奥さんが大激怒していた。
それでも、私にはかけがえのない時間になった。だから、それこそ兄に感謝だ。
帰ると、家族が集まって、BBQをしてくれた。
ご想像の通り、どこを見渡しても肉しかない。
野菜は、レタスとトマトのみだった。
お米はマヨネーズを和えたもので、不思議な味がした。
従兄弟が4人いるのだが、その中の1人のフィアンセが、英語が話せるので、私に英語でコミュニケーションを取ってくれる。優しい。
一生懸命通訳してくれるのがありがたかった。
最後に大きなケーキを出してくれて、至れり尽くせりだ。
みんな、私を悲しませないように楽しい雰囲気にしてくれる。踊って歌って、夢のような時間だった。
全ての人が、私の為に動いてくれている。
幸せしかないこの瞬間が、私の傷ついた心に寄り添ってくれる。
それでも1人になるとふと押寄せる、寂しさと悲しさ。
また、枕を濡らしながら気絶するように眠った。