私だけが知るアノ競馬界のレジェンドの姿
北の大地に生まれた私は20歳のころから35年以上競馬を嗜んでいる。
今はウマ娘も人気で若者の競馬ファンも増えてポピュラーになり、競馬場もお洒落でクリーンな空間になった。
グルメも美味しくて馬や騎手に至ってはアイドル並みに人気がある。
ヤジなんて飛ばそうもんならSNSで袋叩きだ。
ゆるキャラがお出迎えしてくれて、人気馬のポストカードをプレゼントしてくれる競馬場も好きではある。
ただ、昔の競馬場に漂うあの独特な場末感も好きだ。
ワンカップを片手に赤ペンで新聞に印を書き込み、独自の理論を誰に訊かせるでもなく大声で独り語っているオッチャン達。
タバコの煙で真っ白ななかにある窓口でオバチャンにレースと馬の番号を告げて馬券を買う。
もちろんマークシートなんて無く、「中山8レース、3-8を500円」といった感じ。
券売機ができた時も今のように全機100円からではなく、100円単位で買える券売機と1000円単位でしか買えない券売機があり、100円買うつもりが1000円分買ってしまった!なんて間違うことも多かった。
24頭立て8枠のレースがあり、今のように3連複や馬連も無い。連単なんて最近の言葉で当時は単勝、複勝、枠連のみ。
片手にワンカップ、お尻のポケットに競馬新聞、耳には赤ペンをさしたおっちゃん達がモニターを睨んで怒号が飛び交う。
火のついたままのタバコをその場に投げ捨てて馬券を足元にばら撒く。
そこにゴミ箱の概念は無い。
競馬を商売にするべく、悪い人もたくさん集まっている危険な場所だ。
カメラとぬいぐるみを片手にウマ娘の推し活をしている現代の競馬ファンがその場にいたら、SNSに写真をアップされて住所特定班に秒で正体を明かされ、会社から注意をされて減給もんだ。
懐かしいあの頃、20代前半の私は毎週のように場外馬券場に通っていた。
当時は若い女性が居るのは珍しかったのか、場外馬券場にいると冷やかしで声をかけてくる人も多かった。
ある日、いつものように8番柱の影でモニターを横目に競馬新聞を見ていると、色付きメガネのオジサンから声をかけられた。
「オネェちゃん、毎週きてるね?今日の調子はどう?」
ゴツイ体格で目つきがとても悪い。メガネのレンズが斜めに傾いていて、いかにもという感じだ。
場外馬券場じゃなければ祭りのテキ屋でアメリカンドックでも売っていそうである。
テキ屋といえば北の大地ではアメリカンドックには砂糖をつけて食べる。
おでんには味噌だ。
関東に越して、アメリカンドックに砂糖をつけないと知って衝撃を受けた。
なんとトマトにも、そして納豆にも砂糖は使わないという。
人生の半分は損をしていることに気付かぬ関東人よ。
和食レストラン『とんでん』の発音も間違っていることは言わずにおく。
時を戻そう
この色付きメガネも毎週居る。
しかも朝は私より早い。8番柱近辺で良く見かける。
家族には仕事だと嘘をついて、朝から晩まで競馬場に来ているのだ。
顔をやや下に向けて斜めに傾斜したレンズの上からレンズを通さず直接こっちを見ている。
レンズの意味は?
今日の調子はどう?じゃないのよ。
家族サービスしなさいよ。
シカトした。
メガネはそれ以上何も言わなかった。
それでよろしい。
翌週も8番柱の定位置に行く。
メガネはすでに居た。
目が合うと口元だけで微笑んでる。
もちろんシカトだ。
そんな会話のない認識行動がしばらく続いたある日、メガネが缶コーヒーを差し出してきた。
北の大地の冬はめちゃくちゃ寒い。
鼻水も凍る。
学生の頃、ダイヤモンドダストが舞う朝の通学途中で瞬きをすると、目の水分が凍って上下のまぶたがくっつき、目を開けるという行為に力が必要なんだと知った。
それほど寒い。
暖かい缶コーヒーがありがたくて素直に受け取る。お金は絶対に払わない意思表明のため「いただきます」とだけ言った。
👓「調子どう?」
☕️「まぁまぁ」
👓「毎週来てるけど、若い女の子は気をつけたほうが良いよ。悪い人も居るから」
☕️「おじさんは?悪い人?」
警戒のため意地悪に聞いてみた。
メガネは周りを見回して声をひそめて言った。
👓「実はおじさんは警察なんだ」
は?
メガネは、自分は競馬のノミ行為を取り締まる私服警察官で毎週ここを巡回してるといっていた。
心の中でもう一度言う。
はぁ? いや、怪しいって。
決して声には出さない。
言ってることが怪し過ぎる。変なクスリでもやってるのか?
ノミ屋の巡回て、いつも8番柱にずっといるし。黒いセカンドバッグを小脇に抱えてるし。斜めに傾いたメガネ、ゴツイ身体に派手なシャツ。
首元に金色のネックレスがチラチラ見える時もあった。
見た目は完全にそっちの人だ。
「ふーん、そうなんだ。私、よく警察署に行くよ」
言ってみる。
別に悪いことはしていない。
ハッタリでもない。
その当時、私はJAFが発行している会報の執筆を手伝っていて、毎月必ず警察署に行き、交通事故の状況や道路情報などの取材をしていた。
つまり毎月、2〜3日は必ず警察署の交通課に行っていたのだ。
「来週も交通課に行くし」
👓「じゃ来週、刑事課で待ってるよ」
笑って言う。
刑事?
刑事といえばアレだ。前ボタンを閉めずにコートを着て、年配と部下が二人コンビでコーヒー牛乳を飲みアンパンを食べる。
「今のうちに寝とけ」
「俺だけ寝るわけにいかないっす」
そんな会話をしながら柱の影にいる。
たしかに、柱の影にはいる。
いや、でも怪しさ満点、単純にからかわれただけなのかも知れない。
翌週、警察署に行った。
交通課での取材を終えたその足で、半信半疑で刑事課に寄ってみた。
メガネ、メガネ‥‥と探すと
居るーーーーーー!
しかも黒縁メガネ!
本当だった。
傾いていない黒縁メガネのオジサン、いや刑事さんは来客用の椅子に案内して暖かいコーヒーを淹れてくれた。
「ケーキでも買ってこようか?」と笑っていた。悪い人じゃない(当たり前)
そこは、カツ丼でしょ。
言うわけない。だって税金だもん。
黒縁メガネはノミ屋摘発の仕事中とはいえ、毎週若いオネェちゃんが一人で場外馬券場に居るのが心配だったと言っていた。
私と同じ位の年齢の娘さんが居る刑事さんは良い人だった。
その後も何度も競馬場で会ったがほとんど会話はしない。メガネは市民のために職務中なのだ。
ただ、メガネがいることで安心感があったのは事実だ。
場外馬券場には刑事も居るし、モニターに向かって怒号を飛ばす酔っ払いも居る。取っ組み合いで喧嘩する酔っ払いなんて日常茶飯事だ。
そんな場末感が味があって好きだった。
もちろん今も競馬は好きである。
楽しみかたは変わって、綺麗になった競馬場でドウデュースのぬいぐるみを買いプレゼンターのイチローの写真をとる。
北の大地で暮らしてた頃の友人はサラブレッド牧場の娘だった。その牧場で産まれた馬がレースに出るとなると現地に行って応援する。
競馬場や競馬ファンの様子はずいぶん変わったが、35年前あの8番柱のモニターで見ていた武豊だけは見た目も成績も何も変わらない。
宇宙人である。