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帝王切開は可哀想?ラク?——経験者が語るリアルな出産ストーリー
「戦場は違うけど戦友みたい」——帝王切開経験者のリアルな声
「戦場は違うけど戦友みたいな感じ」——これは、先日開催した帝王切開トークに参加した方の言葉です。
同じくお腹に傷を持つ者同士、あの痛み、恐怖、そして社会の「自然分娩信仰」にざらついた経験——語り合ううちに、すぐに共感が生まれました。
「2度目、3度目の帝王切開の方が怖かった」と話す人もいれば、「1回目は予想外だったけれど、2回目は自然分娩に挑戦しようとして、それでも帝王切開になった」と語る人も。
私は3度目の帝王切開のとき、麻酔を強めてもらったり、頭の角度を調整してもらったりと、できるだけ負担が少ないように準備しました。
また、「経膣分娩のようにお産の進行を伝えてほしい」とお願いした方もいて、「いま頭が出ましたよ」と医療者から声をかけられることで安心できたという話も出ました。
経験の数だけ、物語がある。けれど、社会の視線は一様ではないでしょうか?
「かわいそう」「ラクだったんでしょ?」——社会のまなざしが生む葛藤
「帝王切開だったんだ」と話すと、
「かわいそうに」と同情されたり、
「お腹を痛めて産んでいないからラクだったんでしょ」と決めつけられたりすることがあります。
そうした言葉を何度も受けるうちに、気づかぬうちにその視線を自分の中に取り込んでしまうことも。
「帝王切開にならずに済んだんじゃないか?」
「自分の選択は正しかったのか?」
「子どもが風邪をひきやすいのは、帝王切開だから?」
こうした疑念にとらわれることが、私自身にもありました。
でも、話してみて改めて実感したのは、お産の形は一人ひとり違うということ。
自然分娩でも帝王切開でも、そこにはそれぞれのストーリーがあり、それぞれの挑戦がある。
「出産の主体性を取り戻す」——語り合うことで生まれる力
この企画を通して、私は改めて思いました。
帝王切開は、可哀想でもラクでもない。
ただ、ひとつの出産のかたち。
この経験を語ることで、帝王切開を選んだ人も、そうせざるを得なかった人も、自分自身の出産経験を肯定できるようになってほしい。
そして、「語れる場」があることが、こんなにも心を軽くするのだということも実感しました。
これからも、出産の経験を主体的に語れる場をつくりたい。
「かわいそう」でもなく「ラクだった」でもなく、ただ、自分にとってかけがえのない経験だったと思えるように。
それが、これからの私の目標です。