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3.11東日本大震災の体験談

はじめに

こちらの記事では東日本大震災での体験談を話します。苦手な方はホームボタンを押して私のページを閉じてください🙇‍♀️


私と家族の関係

私は4人兄弟の長女として岩手県山田町に生まれました。

2つ年の離れた弟は股関節に障害があります。
母親は岩手県の内陸の大きな病院で弟の手術や入院に付きっきりで、父親も遅くまで仕事だった為に父方の祖父と祖母に面倒を見てもらっていました。

誰にでも優しい祖母。
私にデレデレな頑固オヤジの祖父。

父と母、弟にはなかなか会えなかったけど
毎日楽しく暮らしていました。

数年経ち
弟の病状も落ち着き、
私の小学校入学と同時に内陸に引っ越しました。

小学校卒業の2010年3月
大好きだった祖母が病気のために他界しました。


登場人物

沿岸在住
▶父方の頑固オヤジ祖父
▶母方の祖母
▶母方の祖父
▶母方の曾祖母

内陸在住
▶私
▶父
▶母
▶弟    年の差2つ
▶妹    年の差5つ
▶弟2  年の差10


2011年 3月11日

この日私は
自分の家の2階で弟2とお昼寝をしていました。

経験したことの無い大きな揺れ。

咄嗟に近くにあった枕で弟2の頭を守りました。

1階からは母親の叫び声と
物が落ちる音、ガラスの割れる音

どれくらいの間揺れが続いていただろうか

母が私の部屋のドアを開けた音で我に返った


母「大丈夫!?」

私「……大丈夫。」


内心泣き出しそうだったがパニックで
言葉が出て来なかった。

母と1階に降りると
ものが散乱し、落ちた食器が割れていた

母「ニュース見ようにも停電でテレビがつかなくて。。。携帯でおばあちゃん達に電話をかけてもぜんぜん繋がらないし。。」

母もパニックになっていた
弟と妹は怖くて泣いていた

そんな中、父親が帰宅した。

父「みんな無事か!?」

父親は家族全員の無事を確認すると
ラジオを取り出した。


ラジオ「津波です!家が流されています!」

家族(!?)


何が起こってるの???
津波?家が流される??



真実を目の当たりにしたのは
停電復旧後、テレビがついた時だった。

テレビに映し出された信じられない光景。

それを見ても心のどこかでは疑っていた。
嘘じゃないか?CGじゃないのか?
疑う事で自分の心を保っていたのだと思う。

母はただただ涙を流して泣いていた。

母方の祖母、祖父や親戚たちの安否確認完了。

安否確認が出来ていないのは
頑固オヤジ祖父と母方の曾祖母。

この2人は同じ老人ホームに入っていた。
海のすぐ側の。

私「(大丈夫だよね?)」

頑固オヤジの頑固さを引き継いだ私の父は
1人で被災地に向かう決心をした。


規制がかかっていて外部からは入れないという祖母の言葉を無視して、
支援物資を家族総出で
できるだけ多く車に詰め込んだ。


父「行ってくる。じいちゃんも連れて帰ってくるからな。」


父はそう言って車を走らせた。


どれくらいの時間、日数が経ったのか
思い出せない。

家に1本の電話が入った。
父からだ。


電話をとった母はその場で泣き崩れた。



ダメだったんだ。



母「じいちゃんがしんだ」



父親は遺体安置所を回って祖父を見つけたようだった。


祖父は運がいいのか悪いのか、
近くの建物に引っかかり
海まで流されずにすんだらしい。


帰宅した父の黒い車は見たこともないくらい
泥だらけでまるで別の車のようだった。


車の後部座席にはブルーシートに包まれた大きな
【なにか】が乗っていた。

父「火葬をしよう。」

あの地震から全てが崩れた
割れたのは食器だけではない。
私達の心は限界だった。



火葬場には父親の職場の人たち数人と
従姉妹たちが来ていた。


父「バイオハザードが怖いとか、お化けが怖いとかみんな言っていたけど、そんなものよりもっと恐ろしい事があるんだぞ。じいちゃんの顔をしっかり見て。覚えておきなさい。」


恐る恐る祖父の顔を覗いた。


そこには頑固オヤジの面影など微塵もなく
苦しみもがき死んでいった祖父の顔。

口は開いたまま顔は砂がつき痣だらけ
体はブルーシートに包まれていた。

あの後部座席の【なにか】は
祖父だった。

父はいくつもの規制をくぐり抜けて
約束通りにじいちゃんを連れ帰ったのだ。


後日曾祖母が遺体で見つかったと祖母から
連絡が入った。


話によると曾祖母と祖父がいた老人ホームは
地震の後、避難訓練の通りに高台まで入居者を
全員避難させていたらしい。

それを上回る程の大きな津波が押し寄せて
入居者や職員をのみこんだ。

津波が引いたあとは
最後の最後まで入居者を避難させようとしてくださった若い職員さん達が
まるで干された布団のように
フェンスに引っかかり亡くなっていたそうだ。


数ヶ月後
規制が無くなり瓦礫撤去も少しづつ進み始めた頃

私たち家族は故郷へ向かっていた。

知っているはずの場所なのにまるで別世界。
地獄とはまさにこの事か。

私の大好きだった町は跡形もなく消えていた。

涙が止まらなかった。

男は人前で泣くもんじゃない。と
祖母の葬式でさえ泣かなかった父が

声を出して泣いていた。

父が泣いたのを見たのはこの時が初めてだった。


母方の祖母の話

震災のあと、たくさんの県から警察官や自衛隊の人達が派遣されてきた。

夏の瓦礫撤去作業は過酷だったらしい。

打ち上げられた魚が腐った生臭い臭い。
地元の人なら耐えられるかもしれないが
他県や都心近くから来た人たちは

人間が腐った臭いだと思い込んで吐いてしまったり、体調を崩した人もいたらしい。


夜は
車で人を轢いてしまった
という通報で駆けつけると
そこには怪我人も遺体も見当たらない
という不思議な事件が度々起こったそう。


まとめ

大好きな家族。
大好きな町。

私から大切なものを奪った海は今でも好きに
なれません。


みんなが言ってた。

きっと先に死んだばあちゃんが津波を起こして
面倒な倉庫整理を無くしてくれたんだ。
良かった。

じいちゃんの遺体が見つかって良かったね。

火葬ができて良かったね。


良かった。 良かった。


本当に?


良くないよ。


私の心はあの時のまま。

3月が来ると思い出す。


あの日からもうすぐ14年。



今日も海は美しい


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